2001/10/1
人の成せる業(わざ)
13・10・
今日は、全ての事を終えて、耕し終った畑を見て居る様な、姿の私を感じている。
福岡の知り合いより、宮沢賢治に関する本や、CD・季刊誌等が郵便で届いて、其のCDの音楽を聴いて居ると、想いは深く落ちて、何処かに行ってしまいそうである。
其の心を止め様として、ペンを手にすると、「人の成せる業」との言葉が出て来た。
今は、私には、何の実力と言う様なものも無く、勿論、金も家族も無い、殉教者の様な気持ちに成って来ている。
是も、宮沢賢治の持つ雰囲気の所為だろう。
私は、宮沢賢治はあまり好きではない。
何故なら、賢治の事を思うと、自分との区別が、無く成ってしまいそうだからである。
よく見掛ける賢治の写真の姿が、余りにも寂しく、悲しくて、私は其の世界に、引き込まれそうに成るからである。
野に立つ、黒いオーバーコート姿は、毎夜 夢に出て来そうである。
私が、百姓の所為もあるだろうが、18年間の旅が、すっかり人を想う癖を、強めてしまったからである。
いまは、私の住む谷間は、夕暮れが迫っている。
是で、隣家で山羊でも「メ〜 」と啼こうものなら、其れはもう一遍に、寂しさは完成するだろう。
これ等の世界も、人間が勝手に創り出す世界であろう。
自然の生物には、其れ等の感情は無いと思われる。
只 生きる為に、日々を過ごしている物と、言葉を創り出して、其の内で身悶える人間との差は、何であろうか。
此の心の在り様は 過去に生きた人々の、霊的な積み重ねなのだろうか。
宮沢賢治が長生きをしたら、悲しみの無い世界が、出来たのであろうか。
人間が どれだけの事が出来るのか、私には 是から其れが 確かめられるのであろうか。
平成13年10月頃の夕暮れ時
礒邉自適
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