2003/8/5
解放された夏
15・8・5
昨夜は、19年振りに、身心が解放された感覚がおとずれた。
私は、19年前の夏、何も身に着けず、素裸で屋久島の山中で、幾日をも過ごした。
産まれたばかりの姿と同じく、身に何も纏わず、産毛までもが、空気の流を感じている。其の感じは、実際に行って見なければ、解からない感覚である。
素裸になると言う事は、恥ずかしいとの気持ちを、棄て去る事である。
人間は、生まれた時から服を着せられ、素裸は恥ずかしい事だと、訓えられて来た。
素裸が、恥ずかしいと思っているのは、人間だけである。
其の、他人に押し付けられた考えが、人間を最後まで縛って、不自由にしているのだ。
身に、何かを被っている事は、宇宙と、自分との間に、異物が存在する事に成る。
全てを、取り去って、たった一人で素裸に成って、手足を自由に広げた時、自分と宇宙は一体と成り、その間には、邪魔する物は一切無い。
其処には、宗教や哲学等も、一切消えてしまっている。
私は19年前、仕事も一切止めて、家族とも別れ、自然の中で素裸に成って、全てから解放された。
寺に行けば、寺の服があり、神社に行けば神社の服がある。
処が、山中に行けば、身に着ける物は一切何も無い。
水中に入れば、水が着物であり、水から上がれば、素肌を空気が流れ、産毛がそれを感じるのである。
化粧に気を使うことも、顔の髭を剃る事も無い。
誰の目を、気にする事も無く、全てから自由なのである。
其処には、お金も、財産も、権力も、名誉も、何かの責任も、一切無いのである。
唯一有るのは、自分の存在を感じている、自分の感覚だけである。
水の冷たさを感じる自分
虫の声を聴いている自分
風邪の流れを感じている自分
雲の流を見ている自分
有るのは、何かを感じている、自分だけなのだ。
そこには、他人が存在しないので、人間の言葉を使用する必要が無い。
水が冷たくても、気持ち良くても、それを誰かに告げる必要が、全く無いのである。
何日も何日も、言葉を使わなければ、言葉が、頭から消え去って行く。
其れが、三ヶ月も続けば、自分の名前さえ、頭から消え去って行くのだ。
もちろん、曜日も時間も消え去って、カレンダーが無いので、日付さえも分からない。
自分が、親である事も、誰の子供であるかなども、全て消え去って、イマ(今)だけを感じているセンサーだけが、生き残っているのだ。
言葉が消え去っているので、思考は外側には広がらない。
意識は、感覚の出所に向って行くしかなくなる。
五感の働きが、外側に向かっているのではなく、内側の意識の本体へと、向うのだ。
言葉を使用しないので、大脳の働きは停止して働かなくなり、動物的な食欲や性欲も消え去って、中脳の働きも止まってしまう。
残るのは只、心臓の働きと、呼吸の肺の働きだけである。
それを動かしているのは、中枢神経の本である、古皮質である。
脳の一番奥、脊髄の頂点だけが、生き残っているのだ。
其処に住んでいるのは、もはや自分ではなく、蛇か蜥蜴なのだ。
止めようにも、止められない心臓と呼吸が、自分を占領してしまっている。
その圧力に勝つには、もう肉体の死しか、方法が無い。
何日も、何日も、水だけを飲んで、心臓の鼓動と闘って行った。
やがて、心臓の鼓動に打ち勝って、音が消えた時、胸を大きく波打たせていた呼吸も弱まり、肉体は大地に倒れた。
是で、全てが、終わったのだ。
其の安らぎの向こうに、宇宙の始まりの音が、聴こえて来た。
私は、自分が消えて、永遠の世界へ、返って行けるのである。
永遠の世界に、返り着いた自分は、宇宙の始まりに辿り着いて、更なる生命の発生を、直視したのだ。
私は、その永遠の働きの、動きと共に、再生されて来た。
宇宙の記憶と共に、再び、呼吸と鼓動を取り戻したのである。
それからの自分は、元の自分ではなく、天地一切と一体の自分である。
自分が休むとき、天も休み、天が休むとき、自分も休む。
そんな時間が、19年も続いて、ようやく元の位置に帰って来たのだ。
永遠の、日溜り中に身を置いて、再び、あの感覚を思い出している、自分が在る。
永遠の時の挟間から、身を乗り出して、自分の乗り物を、見てしまったのだ。自分の乗っている汽車が、長いカーブを曲がって、トンネルの中に入ろうとしているのを、横から見てしまったのだ。
永遠の時間の向こう側には、終着駅は無いのだ。
その世界に、自由に、手足を宇宙の中に拡げた時、自分が本当に存在している事が、感じられるのだ。
今日は、久しぶりに解放された自分を、取り戻している事に気付いた。
私の、身に寄り付いていた多くの霊達が、離れてしまっている様だ。
お盆が近付いて来たので、自分の故郷へ皆、帰って行ったのだろうか。
自分の身体を、自分一人で自由に使える事は、何かしら勝手が違っている。
自分で、遣りたい事が無ければ、身体も心も動き出さない。
本当の自由とは、自分の身体を、誰かが使ってくれる事で、私は、自由にして居られたのではないだろうか。
妻が居なければ夫も出来ず、子供が居なければ父親も出来ず、仕事が無いので現場に出て行く事も出来ない。
せめてもの自由は、ペンを持って、文章を書く事である。
それさえも、取り上げられれば、再び、心臓の鼓動と、呼吸の圧迫に押しつぶされそうである。
そうなれば、昔の様に、森の中へ立ち入って、水の流れと戯れるか、蝉の声に身を沈めるかして、静寂(しじま)から、逃げ出さなければならない。
赤子が、何故、手をバタバタ動かすのか。
それが、ようやく理解されそうに成って来た。
耳が聴こえ始め、目が見え始めるのは、不自由の始まりなのではないだろうか。
五感に振り回される事から、再び 逃げ出さなければ成らないようだ。
平成15年8月5日
礒邉自適
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