2003/4/7
正傳 矢追日聖
15・4・7
山口県萩市から、山陰道を出雲に向けて車で北上中、「正傳 矢追日聖」との言葉が、頭にいき成り出て来た。
私が「エッ、どういう事?」と想うと、イメージが浮かんで来て、矢追日聖氏の教えを、正しく伝え残さなければならない事が理解された。
「矢追日聖」とは、1911年(明治44年)12月23日(旧暦11月3日)「冬至」生れで、1996年(平成8年)2月9日に亡くなった奈良市の方で、私が初めて出会ったのは1985年7月27日であり、其れは奈良市大倭町の日聖氏の自宅であった。
前日26日に、野草社の石垣雅設氏を初めて訪ね、その日はあじさい邑(むら)の会館に泊めて貰い、次の日矢追日聖氏に会う事となったのである。
私は、約一年半の全国巡りが同年7月2日に終り、最後に泊った旅館「木津館」の主人の紹介で、京都府丹後の網野町の龍献寺住職「安井桂造氏」を訪ね、安井氏の紹介で亀岡市の西光寺住職「田中真海和尚」の所に翌3日に着いた。
其れが、私の島外での人間関係の始まりである。
西光寺で数日を過ごし、丁度、寺に一週間の修業に来ていた「笑太郎君」と旅に一緒に出る事となった。
私が、喜太郎の音楽に興味を持っていたので、笑太郎君が「喜太郎とは 知り合いなので 会いに行こう。」と言う事になって出発し、途中、長野県大鹿村の笑太郎君の友人「アキ」の家に立ち寄った。
すると、アキの言う事には「自適さんは 奈良の野草社の石垣さんを 訪ねた方が良い。石垣さんなら 自適さんの話が解るだろう。」との事になって、次の日、奈良に向って引き返す事になったのである。
午後4時頃、奈良市に着いて、「大倭あじさい邑」内に在る、野草社の代表「石垣雅設氏」と初めて会う事となった。
石垣氏との会話の中で、私が「途中の 古墳の所を通ったら 頭に『法主』と出て来たのですが。」と言うと、石垣氏が「それは 此のあじさい邑の理事長の事ですよ。理事長の矢追日聖氏は 通常、法主さんと呼ばれています。」と云って、矢追氏に連絡を執って下さり、翌日矢追日聖氏の自宅で会う事になった。
野草社の事務所で、石垣氏と話している間に、私が、体で何かを感じたので、時計を見ていたら、その時間に長野県の「地附山・じつきやま」が崩れていた事が、次の日判明した。
次の日、私と笑太郎君、其れに石垣さんと野草社の社員計五名で、日聖氏の自宅を訪問した。日聖氏と、奥様が、自宅の畳の客間で私達を温かく迎えて下さり、私は自分に起きた事を話した。
今は、何を話したかは覚えていないが、他の人が聞けば、頭が変しいと思う事を話したであろう。
日聖氏の所には、私の様な状態の人間は 数多く訪れるので、少しも変な顔をせず私の話を聞いて頂いた。
私が、日聖氏に「私が大事な人に出会うと 地球が喜んで 何かを起こすのです」と云うと、突然、日聖氏が「あんた 今日の新聞を読んだか」と訊くので、私が「いいえ」と応えると、「今日の新聞に 昨日 長野で山崩れが起きた記事が載っている」と云う。
時間を聞くと、其れは、私が気に成って、時計を見た頃の時刻であった。
その事で、私は、石垣さんと矢追日聖氏が、神にとって大事な存在である事が分かったので、一目置く様になったのである。
矢追日聖宅で、話が盛り上がった時、私は上半身裸に成り、日聖氏の前で座ったまま一回転し、「今度の肉体は 若いので 大丈夫だ」と云うと、日聖氏が「私の所の霊は 女の霊だからなあー」と云った。
矢追日聖氏が、福祉の邑を造ったのは、聖武天皇の皇后「光明皇后(藤原安宿媛・あすかひめ)」( 701〜760)の、霊の働きに因るものだとの事。
世直しは、女霊では難しく、男霊で無ければ駄目だとの意味の事が、伝えられたのである。
私に、世直しの霊が憑いている事は、矢追日聖氏に理解して頂いた様である。其れから数度、「あじさい邑」を訪れていて、1987年(昭和62年)1月14日より一年間、石垣さんの野草社の手伝いをする事となった。
石垣さんとは、87年11月21〜22日に「スピリチュアル・タイム」とのタイトルで、全国から「あじさい邑」の大倭会館に、70名程集まって貰い、話し合いを持ったりもした。
話を、最初の方に戻すと、矢追日聖法主の教えを、正しく伝えろとの事なので、矢追日聖氏の教えの真髄が、何なのかを確認しなければならない。
日聖氏の伝記は、野草社より「やわらぎの黙示」と「ながそねの息吹」の二冊が出版されているので、詳しくは其の本を読んで頂ければ良いが、私が大事だと想っている所だけを、幾つか書き出して見よう。
1、矢追日聖氏のよく言われていた事は、「私は 信者も 弟子も一人も要らない。私が行っている事は、霊界の人達の成仏を願っての事であり、霊界に滞っている人達が、全部成仏すれば、霊界人が現世の人達に憑いて、何かを行おうとの事が無くなり、現世の人間と、神が、直接繋がる事に成り、世の中は平和に成る。」との理・ことで、日聖氏自体が、自分の意志ではなく、神霊の思いや、頼みに動かされていた事を証明している。
是は、私と同じ状況を示しており、私が、霊団に肉体を貸している事と同じことが、日聖氏にも現にあった事が理解出来た。
私が、日聖氏の前で、裸になって体を見せ、「今度の肉体は 若いから 大丈夫。」と云った事の理由も、其処にあったのだろう。
2、矢追日聖氏は、終戦の昭和20年8月15日に、大倭神宮で神に地球儀を見せられ、世界中に日の丸が立っており、新しい精神革命が、日本から起きる事を告げられている。
其れは、現代の価値観が行き詰まり、新しい価値観が日本から始まり、世界中に拡がる事を示唆している。
3、日本から、世界に拡がる価値観とは、紫陽花の花の如く一輪一輪が花開いて、其れが大きな花と成り、また花が沢山有る株と成り 根本は一ヶ所に集まっている。
そんな紫陽花の花の形の様に、一人一人、一民族、一国家が、皆 独自の特長を生かし、それが大きな和になっていると言う、個々が花開いている社会である。
現在の様に、力の強い国が、自分の国の風習や価値観を、世界に押し付ける遣り方とは、反対の考え方である。
4、矢追日聖氏が、一生を懸けて行った事は、福祉の村造りであった。
現在、あじさい邑には13の福祉施設が有る。
矢追日聖氏は、終戦後間もない大阪の市内に、ただ一人で幟を手にして立ち、生活に困っている人達を集め、皆で、施設を造り、現在の形までに持って来たのである。
あじさい邑は、日本の福祉の雛形として、福祉行政の最前線を務めて来たのである。
一応、宗教活動の認可は得ているが、宗教活動をするのではなく、人間の生活其のものに、関わり続けて来たのである。
日聖氏は、マザーテレサ的働きを、一生続けて役目を終え、安らかに往った。
矢追日聖法主が亡くなって、是までの7年間では、私に、日聖氏に付いてのメッセージが届いた事は一度も無かった。
其れが、4月7日に萩市を通過した時に、何故出て来たのだろうか。
萩は、明治維新の原動力と成った、幕末の志士を育てた「吉田松陰」の出身地で、松下村塾が在った曰(いわ)く因縁の地である。
其の、維新の草分けの地で「矢追日聖を正しく伝えよ」と出たと言う事は、世界維新に向けて、改めて、矢追日聖氏の事を考えろとの事であろう。
4月7日の日付を考えると、釈迦の誕生日の前日であり、昭和20年4月7日には、日本の国の名を付けた「戦艦大和」が、屋久島の西南沖で沈んだ日でもある。
日本は、軍隊を持って世界に力を見せる事は、此の日で終っている。
日本は、軍隊を持つ事は、永久に憲法で放棄している、世界に類の無い国である。今日のアメリカの政策とは、反対の処に位置するものである。
今回のアメリカの遣り方で、軍隊を持って行う方法では、世界は平和に成らない事が示された。
矢追日聖氏が云う様に、人間が平和な社会を迎えるには、自分の欲望を禊ぎ、霊界の鎮魂を果たして行かなければならないのだ。
そして、人々が幸福に暮せるのには、福祉の充実が大事である。
私個人には、具体的な計画は未だ立っていないが、協力者は増えて来ている。取り敢えず、矢追日聖氏の事を考えていれば、何か、する事が見えて来るかも知れない。
矢追日聖氏は、終戦の年から12月23日を元旦として、祭りをして来ている。
本来、太陽暦を正確に使用するのなら、冬至が年の変わり目に成らなければならない。現在の元旦は、冬至から7日ずれている事になる。
世界を見ると、歴史が変る時には、暦も変っている。
しかし、今だ、世界共通のカレンダーは出来ていない。日本から、世界維新が始まるのであれば、先ずは、正しい暦の作成から始めるのも、一手であるのかも知れない。
矢追日聖氏が、終戦の日から始めた事が、神の意志に拠るものであり、世界維新の準備だったのであれば、霊界も其の為に、58年間段取りを続けて来た筈である。
吉田松陰をはじめ、若くして、維新の為に命を捧げた人達や、太平洋戦争で国の為に若い命を散らして往った人達の想いを受け取って、平和な社会を創造して行かなければならないだろう。
私達が、早く気付かなければならない事は、日常の生活ばかりに意識を捉われて居てはいけないとの事である。目先の事ばかりを考えて、努力を積んでも、未来と合致していなければ、無駄なエネルギーの浪費で終ってしまう。
私も、自分の老後と、子孫の為にも、大きな視点を持って、今後の人生に取り組んで行かなければならない。
追記:大倭あじさい邑では、毎年12月23日に元旦祭が行われており、参加は誰でも自由です。
場所 〒631-0042 奈良市大倭町4−6 大倭教
TEL[0742-44-0015]
平成15年4月7日
礒邉自適
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