2004/8/25
水の島
16・8・25
屋久島は、水の島と呼んで良い。
有名に成った縄文杉も、豊富な島に降る雨に育てられて、大きく成ったのだ。世界には、屋久島よりも、雨が多い島が有るそうだが、それでも屋久島は、雨の島・水の島と言って良いだろう。
私も、その雨の島に生まれ育って、57歳に成った。
この年齢に成って、自分の人生を振り返って見る時、やはり一番気に成るのが、島の雨と水の世界である。
子供の頃、台風が近付き、強い横殴りの大粒の雨が降り始めると、素っ裸に成って屋外に飛び出して、素肌に突き当たる雨の刺激を、楽しんだりしていた。
夏に成れば、近くの川に行き、泳いだり、ウナギの罠を掛けたりして、遊んでいた。
だから、雨や水が、私の生活の一番身近に有った事になる。
私の人生を、急変させたのも、屋久島の水である。
私は、1984年6月4日(旧暦5月5日)に、無庵師匠に見守られながら、安房川の岸で禊ぎ祓いの儀式を行なった。
そして、私はイエスキリストの様に4311体もの聖霊に、満たされたのである。それは、38歳の初夏の出来事であった。
私の人生は、其れから、全く違ったものに成ってしまったのである。
私にとって「禊ぎ祓い」の言葉が、実体験と成ったのである。
日本の神社には、鳥居の所に「御手水」と呼ぶ、水が用意されており、其の水で、口や手を清め、其れから鳥居を潜り、神のお社の方に向かう。
神霊と会う前に、清い水で、心身を禊がなければならない様に、決められているのである。
其れは、日本の神道の始まりである「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が、小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いをして、「天照大神」「月読命」「須佐之男」の三神を生み出した神話に、因んでいるのだろう。
世界の宗教に目を向けると、キリスト教の教祖であるナザレの「イエス」も、ヨルダン川で「ヨハネ」と言う人に、禊ぎの儀式を受けて、聖霊に満たされて神の道に入っており、佛教の教祖であるインドの「釈迦(ガウタマ・シッダールタ)」も、厳しい六年間の厳しい修行を止め、池で禊ぎをしてから、木に寄り掛かって休んだ時に、悟りを得ている。
其れ等の出来事を考えると、日本の神道も、キリスト教も、佛教も、皆、教祖が水浴びをして、禊ぎ祓いの儀式を行ってから、神の世界に通じる様に成っている事が、理解出来る。
水こそが、神の世界に通じる入口に関係があり、其れが、神の世界の神秘とされているのだ。
神道でも佛教でも、山中で滝に打たれたりするのは、その神秘に触れるのが、目的と成っているからである。
その意味からしても、滝の多い地形の屋久島は、最高の修行の場と言えるだろう。
屋久島の、聖者として伝えられている「泊如竹」を、五歳の時に見出して僧侶にしたのも、屋久島に修行に来ていた行者だったと云う話もある。
昔から、屋久島には修行を目的とする人達が来島し、島の清い水で禊ぎをしながら、修行を続けたのであろう。
私は、この屋久島に産まれ、水と戯れながら、成長して来た。
私の魂しいは、島の水と共に、在ると言えるのかも知れない。
平成16年8月25日
礒邉自適
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