2004/12/12
純粋な肉体は水
16・12・12
聖なる者とは、どう言う人の事であろうか。
漢字の「聖」の意味は、「耳を澄まして、神の言葉を受け取る人が、首を傾けて伸ばしている象形」である。
日本語で、それを「ひじり」と読むのは、「聖者は宇宙の日や 霊の働きを 知っている」との意味である。
「聖なる者(霊知り)」に成るには、それなりの努力をしなければ成らない。
「聖・セイ」の漢字は、【解字】「耳+口+王(壬)」の組み合わせ。口はいのりのことばの意味。音符の「王・壬・テイ」はせのびした人の象形。耳をそばだてて神意に耳を傾け、よくきくことのできる人の意味を表す。
【字義】@ひじり。㋐知徳にすぐれ道理に明るい人。㋑一芸一道の奥義をきわめた人。「詩聖」Aさとい。かしこい。知徳にすぐれている。B天子の尊称。また、天子に関する事物の上にそえる語。「聖恩」 漢語林
その努力とは、別の言葉で言えば「修行」であろう。
私の、20年間の修行から知り得た理・ことは、「三次元的な肉体を 四次元的な肉体へと 波動転換させること」と、成るであろうか。
三次元的な肉体は、食欲、性欲を必要とし、病気をも伴っている。
しかし、四次元的な霊体は、魂しいだけで出来ているので、食べる事も性欲も必要ではなく、着る衣も、住む建物も必要とはしない。
何の欲望が無くても、存在出来るのである。
霊界人が、何かの事を成そうとする時は、三次元に存在する現界人の肉体を、借り受けてしまえば良いのだ。
又、現界に居る私達人間も、能力を得ようと考えれば、自分の自我意識を消して、霊界人の守護(憑依)を受け入れれば、願いが適う事に成る。
その為に、三次元世界に、神社や寺院が、星の数ほど建てられて来たのである。
しかし、どんなに数多くの寺院や神社が存在しても、神は働かず、どんなに立派な建物が建てられても、神は、住みはしない。
本来、神が住むのは、生きた人の身体だけである。
寺院や神社に住んでいる霊は、過去に、人間をしていた人間霊だけである。
純粋な神霊は、建物ではなく、生きて動いている人の身体を、宮として使うのである。
だからこそ、日本語では、人は「霊止(ひとどまる)」として、「ヒト」なのである。
では、ヒトの身体(體)と、霊体との関係性はどうなっているのだろうか。
三次元の人間の體は、物質なので、その活動を支えるのに食物が必要であるし、体温を維持するのに、着る着物や建物が必要であり、食物の消化や栄養の循環に、水が必要である。
人間は、水さえ飲んでいれば、食物を食べなくても、一ヶ月程は生きられるが、水を飲まなければ、一週間程で死んでしまうので、水の大切さは理解出来る。
水は、人間の肉体の60〜70%を占めている。
その事を、別の角度から見れば、人間とは七割は水であって、物質的には三割しか無い事になる。
と、言うことは、七割の水を清めれば、七割は聖なる者と成る事になる。
その理・ことわりを、昔の人達は知っていて、世界中の宗教は、水を儀式に取って、一番大事な物としているのだ。
釈迦も、6年間の修行を止めて、池で水浴びをして悟っているし、イエスもヨルダン川で、水浴びをして聖霊に満たされている。
日本の神道の本も、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が小戸のあわぎはらで、水浴びをして、神々を生んでいる。
仏教も、キリスト教も、神道も、人が水浴びをする事で、発生している事に成る。
これらの事からすると、三次元の人間の肉体と、四次元の霊界との間には、水が介入している理・ことが理解できる。
よく聞く話に、「車を止める人が 道に立っていて、その人を乗せて行き先に着いたら、乗せた人がいなくて、座席に水溜りが残っていた。」と有る。
それも、霊魂が空気中の水を集めて、自分の姿を創りだし、行き先を告げて、現場に着いたら魂(情報)だけが、ガラスを抜け出るからであろう。
跡に残されるのは、乗る前に集めた、空気中の水気だけである。
霊と、水の関係性が、理解出来る話である。
その事から考えても、清い水の肉体には、清い霊が宿り、汚れた水には、汚れた霊しか同調しない事が分かる。
昔の神社や寺が、清い水の流れる山中に存在する事の理由は、其処にある様だ。
人間は、自分の肉体内の、水の波動を変える事で、霊性を高める事が出来るのである。
水その物が、霊的な働きをすると考えても、間違いではない。
神社や寺に、清い水は付き物である。
清い水が無い神社や寺は、只の金儲けの為の施設とも言える。
其処に住み、役目を果たしている者が、何処かの、山中や河川で禊祓いを行い、高い周波数の水を内蔵していれば別の話だが、その様な例は少ないだろう。
「純粋な魂しいは、純粋な水に宿る」と言っても、良いのではないだろうか。
人間が普通に食べる食品も、美しい水で育った米や、清らかな水で育てた魚などが、身体に良い事は間違い無い。
つまり、水や食物=イコール環境だから、人間の魂しいも、環境にイコールであると言えるのかも知れない。
その意味では、私の住む屋久島は、恵まれていると言えるだろう。
自然の山岳と、美しい森や水の流れ、それらの環境の中に、聖霊達が多く住んでいると考えるのは、昔の人の考えだけでなく、現代でも言える事ではないだろうか。
私へのメッセージも、それらの霊達からのものだろう。
自分の、肉体中の水を護る、それが私の役目の様だ。
平成16年12月12日
礒邉自適

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