2004/6/22
丸い屋久島
16・6・22
日本の禅宗のお坊さんが、よく丸い円を筆で描くし、日本の通貨の単位の円は、嘗って360円で、分度器の360度と同じ数字に制定されていた様に、日本人は丸い形が好きである。
国旗の日の丸もそうであるように、太陽の形が好きで、満月には月見もする。正月の鏡餅や神社の鏡も丸で、日本の文化から、丸い形を取り除くことは出来ない。
私は、屋久島で生まれ育ったので、故郷の島も丸い形である。
私は、若い時から屋久島中を回って、貝取りや、魚釣りや、海に潜って魚や伊勢エビ等を獲って居たので、丸い屋久島の地図や、地形が、頭の中に納まっている。
島中の経済や、政治と人間の生活も、全て丸い島の自然情景の中に、納まっているのである。
私達の住む地球も、月も、太陽もみな丸いし、太陽系も円軌道で営まれている。
丸い円の形は、出た所も引っ込んだ所も無い。
だから、丸をイメージしていれば、縦横とか、左右とか、上下の意識も生まれないし、何等かの差別も権利関係も生まれない。
「全てが 円満に」との言葉は、其の様なイメージから、生まれたのだろう。
現在の世界情勢を観れば、丸い形を念じる人達が、人の上に立っていないことが窺える。
円の思想が無ければ、仏教のマンダラの図や、天皇家が使用している、シュメール文化の菊花紋も、誕生していなかったであろう。
其の点からしても、丸い形は、人類に、平和と安定を齎していると言える。
現在の、縦割り形の社会体制は、ピラミッド形である。
ピラミッド形の体制やシステムは、調和を生み出すことは出来難いのだ。
世界が不調和になっているのは、円と中心の機能を、失ったからではないだろうか。
上下の管理体制では、永久に真実の平和は生まれない。
円の形はクルクル回るので、誰でも上にも成るし、下にも成る。
円の持つ関係性が、自由と平等の価値観を創出できる、唯一の方法ではないだろうか。
其の為には、中心に位置する人物の働きが、無であり空であって、しかも重力を有していなければならない。
中心に在るべき物が、何処かの一部へ、引き寄せられてはならないのだ。
其の働きの、具体的な姿が「ブッタ」であり、「スメラの命」であり、「ラーの王」である。
其れ等中心の、本来の働きは無であり・空であるので、世襲制の様な柵・しがらみは、発生しないのが本当の姿であろう。
中心の働きが、世襲制として決定していれば、怠慢に成るので、力が存続せず、円の中心のエネルギーが失われ、調和を保つことが出来ず、単なる権力の坐としてしか、機能しなくなるのだ。
人間の、権力が中心と成れば、宇宙の働きの力は注がれないし、調和も無くなり、エネルギーも発生しない。
其処に有るのは、人間界のしがらみ・業だけである。
丸い形の屋久島の中心には、宮殿も無いし、神社や寺も工場も無い。
有るのは、「石楠花・しゃくなげ」や「屋久笹」に覆われた、花崗岩の山頂だけである。
其の、島の中心の山頂に立てば、自分が中心であり、意識的に一番高い所に位置している。
しかし、其処には、政治や経済も、宗教や哲学・イデオロギー等、何も無いので、自分は全くの ○ の人間である。
一番中心の、高い所に立つが、何も無い空の状態である。
その状態こそが、本来の人間が、何者であるかを知る、最上の方法ではないだろうか。
自分は、何者でもなく、神に生かされている理・ことを実感出来る、唯一の場として、昔から、屋久島の奥岳は神の坐とされて来たのだ。
昔の人々が、山頂を、神の場として拝して来た理由が、理解出来ると言うものだ。
私も、この丸い島に生まれ育つたからこそ、現在の自分の意識があるのだと思う。
上も下も無く、右も左も無い思考の舞台は、丸い形の屋久島で育ったからこそ、生じたものであろう。
雲に包まれ、稀にしか姿を現さない島の奥岳こそ、永遠の思考の対象と言えるだろう。
360度、全体を見渡す事が出来る、屋久島の御岳の場こそ、円を自覚出来る場所と言える。
東から、丸い太陽が昇って天空を巡り、反対側の西の海に沈んで行き、東の海には、満月が昇って来る。
其れを、眺める静かな山頂こそ、穢れ無き、唯一の社(やしろ)と言えるだろう。
夜明けの太陽の光りが、一番先に御岳に当たる。
其の朝の光りの中に、竹の葉を食む屋久鹿の姿が有る。
全てが、調和している世界を、感じる事が出来る、屋久島に産まれ育った私こそ、果報者と呼べる唯一の者ではないだろうか。
平成16年6月22日
礒邉自適
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