2003/11/1
光と物と人の位置
15・11・1
私が、今朝「人間」と「物」の世界の位置を考えていて、人間の意識の立場が見えて来た様な気がする。
釈迦牟尼仏は「物に執着するな」と謂っているし、イエスキリストも「金持ちが神の世界に入るよりは ラクダが 針の穴を潜る方が 可能性がある」と云って、金持ちは、神の世界には入り難いと謂っている。
其れは 何故なのだろうか。
私は、今朝、神を光として、光の場を設定して見た。
すると、光と自分の間に、大きな物があれば、自分の居る場所が影に成り、神である光が当らなくなるのである。
だから、障害物である、自分の物を全部棄てると、神の光を、全身に浴びる事が出来るのだ。
以前の私は、神と、自分の間に、物を置いていたのだが、今度は、神と、物の間に、自分を置いているのである。
そして現在・いまは、光である「太陽」の位置から、「地球」に向きを変えて、新たに、物の世界に手を触れようとしている。
今度は、背に一杯、神の光を受けながらである。
神の光 → 物 → 自分
自分の目線
神の光 → 自分 → 物
昔は、神に向って、物が豊かになる様に願っていたのだが、現在・いまは、神が、私に管理させる物だけを、その都度管理するだけで、自分の個人的な、物の所有感は全く無く成っている。
私は、地球と、太陽の間に位置していて、太陽(神)の代りに、地球を見詰めている立場と変ってしまったのだ。
だから、今朝のビジョンでは、太陽の光を、背に受けた私の影が、物の方に映って、手には直接何も持たなくても、必要な時に、必要な物は、神が手に取らせてくれるのである。
だから、神が手に与えてくれるまでは、手を出さないで良いのだ。
私は、全てを捨てて19年が経つ。
そして、現在は、あらゆる物は自分の為にあり、宇宙全体も、自分の為に存在するのだとの理を、解って来ている。
何か一個でも、自分の物として所有し、其れに対して「執着心」が起きた時に、代償として、全ての世界を失うのである。
手にしたと意った一個でさえ、何れは、失ってしまう物なのだ。
自分の肉体でさえ、自分の物では無い。
人間は、全てが、意い通りに行かないのは、全てを、自分の世界にしてしまう事が、不可能だからである。
私はいま、自分の欲する物は無い。
全て、神が与える儘に生きているので、何も持たなくても、不自由は覚えない。
東洋の諺には、「足るを 知る」との言葉が有るが、西洋には、その様な言葉が無いと聞く。
東洋の人達は、自分の身を太陽側に置いて考え、西洋の人は、その反対側に居るからだろう。
日本の諺には「何処へ行っても お天道様と 米の飯は 付いて廻る」との言葉がある。
別に、物に執着しなくても、神の光(働き)が、自分の背に付いて廻っていると、考えて居たのだろう。
私が、物事を良く視る事が出来る様になったのは、立場を変えたからだろう。
太陽の光に、直接向かえば、太陽は良く見えても、眩しくて、他の物は何も見えないが、振り向いて太陽を背にして見れば、物に良く日が当たっているので、良く見える事になる。
神社に鏡が有るのも、その理の為だろう。
神社で「禊ぎ祓い」の儀式をするのは、自分の所有心を祓って、神の光の方向で、物事を観る為なのである。
今朝のビジョンは、分かり易いものであった。
智慧の神である、「少彦名神」でも来ていたのであろうか。
平成15年11月1日
礒邉自適
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