2003/8/15
水の島
15・8・15
今年のお盆は、三日とも連続雨である。
昨夜も、雨音の中に眠っている所為か、夢には、滝の水が流れ落ちるのが映って来た。
私の意識が「そうか 屋久島は 水の島なのだ」と思うと、「違う 地球が 丸ごと 水の世界なのだ」と、別の意識が現れて来た。
考えてみれば、屋久島に雨が多いのは、屋久島が、水を生産しているのではなく、大きな地球の水の循環システムの中で、丁度、屋久島が雨の降り易い条件下に、あると言う事である。
中国の南の方で、蒸発した水分が、屋久島の方に移動して来るし、台風の通り道でもある。
南の湿った空気も、九州本土に届く前に、屋久島の二千メートル級の山岳に捕まってしまう。
屋久島に、雨が降らなくなる時は、地球上の何所にも、雨が降らない時ではないかと想ってしまう程だ。
そんな屋久島に、生れ育った私だから、雨が嫌いと言うのではなく、「今日も又雨か」と、一人で呟く程度で、雨が降るのは当たり前の事として、受け取って来た。
私は、屋久島で産まれて56年経っているが、私の生れた頃は、未だ、ビニール製の雨合羽やゴム製の雨合羽も無いので、二ヶ月程、農作業が出来ない年もあったと、父親に聞いた事がある。
当時は、未だゴム合羽でも、手に入り難かったのであろう。
私達が農作業をしていた頃も、未だゴム合羽であり、着ると重くて、破れ易かった記憶がある。
やがて、ビニールの合羽が出来て、何と、軽くて働き易いものかと感じたが、冬に成るとゴワゴワして、バリバリと破れるので、あまり長持ちはしない物だった。
雨が降り続いても、牛馬の餌である草刈りに、毎日出て行かなければ成らない。晴耕雨読の様な、呑気な気分には成れない生活だった。
雨が降る、降らないに関係なく、草刈りには行かなければ成らないので、晴れた日と、雨の日の、区別をする心にも、成れなかったのである。
晴れたら晴れたで、晴れた時の農作業が待っている。
現在の様に、ハウスの中の作業でも有れば良いが、当時は、その様な物も無いので、雨の日は、雨に濡れながら出来る作業を行って、天気に成るのを待って、晴れの日しか出来ない作業を行うのである。
当時の農作業は、天気と切り離す事が出来なかったのだ。
私にとって天気とは、自分と一体のものであり、天気の事を外して、自分の存在を考える分けには、行かなかったのである。
其の習慣が、現在でも身に沁み着いていて、自分の思考が、天気に左右されるのだろう。
お日様は、当(照)るもので、心に沁みるのは「水」だとの漢字は、その事を能く表していると想う。
私達が、農業をしている頃は、縁側で日向ぼっこをする余裕などは、皆無だったのである。
晴れた日に、しなければ成らない事は沢山あった。
上天気の日に休む事は、罪人の様な感覚さえ生まれていた。
其の私も、現在では、ようやく上天気の日に、何もしないで家に居る事が、疾・やましくなくなったが、数年程前までは、晴れた日に何もしないで家に居ると、罪の意識に襲われていた。
私が雨を好きなのは、雨が降れば、休んでいても罪の意識が無く、気分が楽に成れるからかも知れない。
屋久島でも雨が降らないで、「砂糖きび」や「さつま芋」等が、枯れかかったりする事も有った。農業は、雨が降らなければ一番困るのである。
野菜の種子は、蒔く時期が外れると、収穫に影響が有る。
種子を蒔いた後、雨が降らないとやきもきする。
長雨よりは、旱魃の方が怖かった事も、雨にやさしさを感じる、原因と成っているのだろう。
屋久島は、大量の雨が急激に降るが、地形が、其れに合せて出来ているので、災害は少ない。だから、雨に対する憎しみは少ないのだろう。
近年に成って、森林を皆伐して、土砂崩れが起き、災害を受けたりしているが、其れは、人間の自業自得であり、雨の所為ではないのである。
私は17歳の時、父親が亡くなって、農業を継ぐ事に成った。
そして、一年間、自分の責任で経営をして見ると、屋久島は雨が多いので、草を除去しても、しても、後からどんどん生えて来る。
持ち畑の、全部を取り終えない間に、もう最初に取った畑には、草が生えてしまっている。
私は、其れを見て、「嗚呼 私の人生は 草取り人生で 草に一生追われて 生きて行かなければならないのだ。」と、感じてしまった。
其れと、畑のPH(酸性度)を計る器具を借りて来て、PHを計り、度数に応じて石灰を撒いても、数日も経たない内に、大雨が降って、畑の土は、太平洋に赤茶色の帯となって、流れ出して行く。
私は、自分の行動と、投資したお金が一日にして、無駄に成るのを見てしまった。
其れ等の事から、草取りに追われない農業で、畑の土が流されない方法は無いものかと考え、草を生かす農業、土が流れない農業として、ポンカンと肉用牛の生産に切り替る事に決めて、20歳から資金を借りて経営の転換を図った。
其れは、技術的にも、内容的にも正解であったが、国の政策に疑問を持ち、25歳で農業から撤退する事にした。
多量に降る雨を、敵にするのではなく、味方にする方法を考えたのである。
今でも、その考え方は、間違ってはいなかったと思っている。
あの時、農業を止めていなければ、現在の様に水を好きに成り、水と戯れる私は無かったであろう。
農業をしている時は、水や雨の存在は、自分の対象側に有り、自分を水の内側に、持ち込む事は無かったであろう。
激しい雨音を聞けば、畑の農作物の事を、心配してしまう生活を続けていれば、現在の様に、雨音の中に、自分を浸し、心の中に、水が沁み込んで来るのを、楽しむ余裕は無いだろう。
自分の外側を流れる水は観察出来ても、自分の内側を流れている水や、他の動物や、植物の内側を循環している水にまでは、意識は伸びて行かなかったであろう。
子供の頃は、台風が通過する時に、素裸で外に飛び出し、強い風に吹き飛ばされながら、ヨロケル身に、雨粒が激しく突き刺さって来るのを、面白がって楽しんでいた。
夏休みに、暑い日差しの中、砂糖きびや薩摩芋の草取りを、汗と泥塗れに成りながら遣って、冷たい川に飛び込んで、身体を洗い流す時の、気持の良さは今でも忘れない。
毛穴で感じて来た、水の気持ち良さは、脳裏に沁み込んで、離れない様である。
四季の雨の中で、夏の雨は、人間の源点を蘇らせる力が、有るのではないだろうか。
水の世界に、深く入れば入るほど、自然生物のいのちが身近に成って来る。
深い森と、清い水に接していれば、小鳥や動物だけではなく、人間だって優しく成れる。
森がなければ、砂漠や草原に住む民族の様に、他国を攻め、収奪をする様になり、水が有っても、海に生活すれば、海賊にでも成りかねない。
私は、喧嘩や暴力は苦手である。
私は、小学校の頃から、親から借りて自分の畑を持ち、草花を栽培して、店に売って、自分の小遣いを稼いでいた。
草花を育てるのは、水の管理が一番である。
家に飼っていた、馬や牛にも、水を飲ませなければならない。
生き物と、水の関係は、学校で習わない内に、理解していたのだろう。
水を与えて、相手を大事にする事。
其れが、私に、知らず知らずに身に着いた、ライフワークなのかも知れない。
「魚心有れば 水心」の諺もある。
自分が、魚の心に成れば、天は気持ちの良い水の世界を、与えてくださるのではないだろうか。
雨天のお盆中、水と人間の係りだけを、観じて過ごして来た。
インドのお釈迦さんが謂ったと云う「全てを 水に還す」とは、此の理だったのかも知れない。
今日は、終戦記念日である。
日本の軍部の人達が、水の心を忘れ去っていた事に、戦争の原因が有ったのではないだろうか。
お盆に、台風も来ないのに降り続ける雨は、これ迄の人間の罪を、洗い流す慈雨なのかもしれないと思えて来た。
緑り豊かな、水の島に生れ育った事に、日々感謝の気持ちが湧いて来る。
まるで 自分が、水から 誕生した 精であるかの様に。
平成15年8月15日
礒邉自適
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