2003/8/9
意識の絡繰
15・8・9
「道」の漢字は、「行+首」の組み合わせで、「異民族の首を 埋めて 清めたみち」の意味の象形である。「首」の漢字は、目の付いた顔と毛髪の組み合わせで、「目」は人間の意識の意味であり、その概念は世界共通である。
そして、最大の意識の目は、山に住む神様に在ると考えられている。
○エジプトのピラミッドのラーの目
○ユダヤの石工の目。アメリカのドル札に印刷されている目。
○ベトナムの宗教・一ツ目の神。
そして、日本の奈良の三輪山や、滋賀の御神山の様に、花崗岩の山が御神体とされているのも同じ概念である。
世界中が何故、岩山が神の目と考えられ続けて来たのだろうか。
モーゼ・イエス・マホメット・空海・役行者・出口王仁三郎など、宗教の教祖に成っている人達は、皆岩山に引き寄せられている。其れは、岩山に意識が存在し、其れに見詰められていると、感じていたからであろう。
その他にも、チベットのカイラス山信仰や、オーストラリアやニューギニアの原住民達の、岩山を神の住む所と考える生活など、世界中挙げて行くと沢山出て来る。
又、岩石だけの信仰でも、ケルト族や、アステカ・マヤ人達、それにイースター島の石像等の石の文化は、神に近付く為のものである。
此の様に、人間と神の中間に、岩山や石の文化が存在する原因は、何であろうか。岩石や、岩山に意識が存在し、其れは「神の目」であるとの考え方を、現代風に説明すれば、どういう理・ことに成るのだろうか。
私の場合も、禊を済ませ聖霊に満たされたら、屋久島の山岳に登ったり、島中の石を家に持ち帰り、螺旋構造に積み上げたりさせられた。
神の世界に入って、最初に遣らされた事は、石や岩山と取り組む事だったのである。
毎日毎日、石と取り組んでいる間に、私の意識は人間社会から離れて、自然との共鳴へと進んで行ったのである。自然と同化して行くと、様々な精霊の働き掛けが有り、奇蹟が起きるので、段々と、神の存在を信じる様に成って行ったのである。
屋久島の岩山で瞑想をし、岩や石と遊んでいる事が、神の世界への入口と成ったのである。イエスキリストが最後の夜、山上の石の所で一晩中祈って居たと言うのも、私には能く理解が出来る。
神の意識は、空から降りて来るのではなく、岩から発せられて来るのである。
日本では、「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」や「饒速日命・にぎはやひのみこと」が、山に降りた事に成っている。其れは、瓊瓊杵尊や饒速日命が、直接天から山に降りて来たと言うのではなしに、瓊瓊杵尊や饒速日命に、神が岩を通してメッセージを降ろしたと言う事である。
旧約聖書に因ると、アブラハムが息子の「イサク」を、神の燔祭にしようとしたのは岩の上である。
奈良に在る「石上神宮」は、御神体が裏山の花崗岩の山と言うことに成っていて、石の上が神の宮と記されているのが面白い。石上神宮は、物部家代々の先祖を祭る神社で、物部家は「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」の子孫と云われている。
其の「饒速日命」が、どのルートで日本に渡って来たのかは分からないが、アブラハムの子孫の一部だとする考えも、全く外れているとは言い難い事である。
天皇家は、物部家の儀式を取り込んでいるが、岩山が神との考え方は現在無い様である。
日本には、未だ山岳信仰が残されているが、現在では、人間が神通力を得るのが目的のようで、「山自体が神である」として敬う事からは、外れて来ている様に感じる。
神通力を得ようとか、悟ろうとかの考えは、自分の考えや目的に原因を発するものであるから、山自体を神として受け入れる事とは、最初から入口が別の処にある事に成る。
屋久島に伝えられている「岳参り」の伝承は、自分が悟りたいとか、神通力を得たいとかの目的の為ではなく、山の神が、人間の幸福や平和を護ってくれているとして、年に数回お礼参りに、海水や、海の砂を、御供えに持って参拝するのである。だから、健康な男性が入山出来、女性や子供は参加出来なかったのだ。
現在では、子供や、女性達も、参加出来る様に成って来ているので、ハイキング的な要素が加わり、本来の目的からは外れている様である。
目的が変わると言う事は、目的意識が変化する事だから、考え方が変ってしまう事を意味する。
同じ、山に登る行為でも、目的意識が変われば、目にする物から、受け取る印象が変わるので、物に対する考え方が変化し、物の価値観が変ってしまうのだ。
私も、子供の頃は別として、37歳までは、屋久島の自然は生活の手段に有効利用するべきものと想っていたが、38歳からは、屋久島は神の身であり大切に守らなければならない物として、考える様になった。
其の意識の変化は、仕事を全部止め、一人に成って、屋久島の自然の中に、自分の身を投じて、不思議な体験をしたからである。
水道の蛇口からではなく、川から直接水を飲み、電気を点けて生活するのではなく、暗くなったら眠り、明るくなったら起きる。鍋で、煮た食べ物を食べるのではなく、木の実や、海の物を直接取って生で食べる。
そんな生活を、一人で自然の中で続けていれば、人間社会のシステムは、全て頭から消えてしまう。お金は、全く意味を持たないし、教育や文化も、全く関係が無くなってしまう。
自分が、それまで良いと想っていた事も、価値が有ると想っていた事も、全て必要がない事だと気付くと、意識は、それ迄とは逆転してしまい、価値あるものだったのが無価値に成り、無価値だと想っていたものが、行き成り価値を持って来るのである。
そうなると、普通の生活を続けている人達とは、行動が反対に成って来るのだ。
それ迄、立派な神社は「善なるもの」であったのに、大事な山を破壊した極悪な物事と成ってしまうのである。子孫が繁栄する事が、良い事から悪い事と成ってしまうのだ。
大きな建物は、資源の無駄遣いで、利己主義の塊と成ってしまうのである。
その様に、思考が動き始めると、頭が良い事が、悪い事になり、働き者は自然破壊者と成って来る。その結果として、人間の意識自体を、疑問に想う様に成って来る。
処が、不思議な事に、其れから数日を自然の中で過ごしていると、そんな疑問も何処かに飛び去って、透明な意識と成って行くのだ。
岩や、山は、もう気に成らないで、草や木と意識が一体と成り、虫や鳥と自分が同化してしまうのである。其処には、人間の言葉の会話ではなく、別の会話が成り立って来るのである。
それ迄の、言葉に拠る意思の疎通ではなく、生物全体の意識回路に、直接繋がるのである。
人間は、人間として別に存在するのではなく、自分は一個の個体ではなく、全体と一体の存在だと気付くのである。
其れが、古代から、人々が山に入る事の原因だったのである。本来のシャーマニズムとは、その様なものであったのだ。
山の神様に、自分の欲望を押し付けるのではなく、山の神と自分が一体化する事が、本来の目的だったのである。
その事を願う者が、王様に成ったり、宗教を起したりする分けが無い。
昔の仙人の暮しとか、聖者の生き方を見れば、その事は歴然としているではないか。自然の森や、清い川の流れが、地球から消えた時、その意識の源を求めても、もう遅いのである。
インドの釈迦仏陀が、「2500年後には 全ての民衆は無明に陥り 其れを救うのは 彌勒と言う一人の目明きの人間だ」と謂っている。其の目明きの「目」とは、山の意識と同化した人の目であろう。
日本語に残っている言葉に「目出度い」とか「お目出とう」と有るが、其れは山の目を得た人間が、此の世に誕生する事の意味なのではないだろうか。
屋久島の森が、その人間を生み出す最後の地であれば、それこそ世界遺産とするべき価値がある。
縄文杉は、その為のたった一つの看板にしか過ぎないのだ。縄文杉が看板であるなら、「看板に偽り有り」と言う事には成らないが、島民を含め、島外から島に立ち入る者達も、価値観を改めて貰わなければならないだろう。
屋久島も、現在・いまはぎりぎりの局面に達している。伊勢神宮や、石上神宮の存在も、ただの儀式伝承に陥っているのであれば、キリストが復活すれば又殺しかねないのである。
イエスキリストや釈迦仏陀も、建物を必要とした分けではない。
屋久島の、緑と、水と、岩が、神のヤシロなのである。その中にこそ、真実の神が宿るのだ。
神社で唱える「大祓詞・おほはらへのことば」にも「國つ神は高山の末、短山の末に上り坐して、高山のいぼり、短山のいぼりを掻き別けして聞こしめさむ・・・・・」と有る。神が森に住む理・ことは、古代からの常識なのである。
我々は、本来の意識を取り戻すべき時を、迎えているのである。
平成15年8月9日
礒邉自適
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