2003/8/7
ものくさ
15・8・7
昨日、「十種の神宝」を調べて「もの(物)」と「くさ(種)」が、同じ意味である事が判った。
其れは、言葉を使用していた古代の部族の違いであり、どちらかが方言と言う事に成る。モノも、クサも、品物の事であると判ったのである。
神事の物(くさ)を管理していた部族が、物を管理する事から「物部・もののべ」との部族に成り、天皇家の物品管理の役割を果たす事に成ったのである。
辞典で調べると「ものぐさ」には、「物種」と「懶・物臭」が有るが、物種は「物の材料の意味」で、懶と物臭は「無精なこと」で「品物の様に動かない様(さま)」を言い表す言葉である。
「懶・ラン・ライ」は「ものうい」で、「心がつかれて動かない」の意味である。「物臭」は、「臭」の「くさい」の「ぐさ」を音に使用しただけなので、意味は無く「種」と同じ文字の使用の問題である。
是等の事を考えると、古代の人達が、自分のアイデンティティを、どの様にして維持しようとしていたかが理解できる。
現代人が、十字架や仏像を飾って祷りの対象としたり、「南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀仏」とかの文字を書いた軸を掛けて、心の頼りとするのと同じ事が、昔から行われていた事が解る。
「十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)」の中に、「蛇の比礼(頒巾・肩巾)」、「蜂の比礼」と出て来るが、この「ヒレ」も、布に心の指針と成る物を画くか織り込むかして、心の支えとした物であろう。
屋久島で飛魚が獲れるが、飛び魚は世界では50種類前後居るそうで、日本に30種以内居るが、其々が自分の「ヒレ・鰭」に異なる模様を着けて、仲間の識別をしている。
人間の生活方法も、飛魚と余り変わらない様だ。
軍隊で、敵を沢山殺した人は、胸にキラキラした勲章を多数着けているが、其れ等の行為は、飛魚より下位の内容ではないだろうか。人間が人間を殺して、威張る事自体、頭が狂っている証拠である。
古代の人達が、「蛇」や「蜜蜂」を標としたのは、生物の本質を知る事で、自分の精神構造を探ろうとしたからである。
現在でも、ヒンドゥー教では「蛇」はシンボルであり、フリーメーソンの結社のシンボルには「蜜蜂」が使用されている。蛇は「知恵」を意味し、蜜蜂は「システム」と「搾取」を意味している。
人間は、何かの章(しるし)が無ければ、頭にイメージが湧かず、イメージが出来なければ、体を動かせないものらしい。その点、現代人は、数字を章(あきらか)にした「紙幣(お金・ドル)」が存在するので、其れに因って体が壊れるまで動く事が出来る。実に、有り難き世の中である。
今や、神も、十種神宝も、必要無くなったのである。
そう言えば、釈迦仏陀は、経本を必要とせず、鉦や太鼓等何も使用していないので、十種神宝(仏具)は必要無かったらしい。釈迦は、お金を必要とせず、物種としては托鉢一個だけである。布施を受ける、鉢を手にして、村を巡回して食料を得ていたのである。
中国の漢字の「有・ユウ」の意味は、「右手+肉」の組み合わせで、右手に肉を持っている象形であり、やはり食料が物の一番前に有る。だから人間は、神棚や仏壇にも、食料を供えるのだ。
人間は、死んで肉体を失っても、霊魂は未だ食料を欲しがるらしい。十種神宝の中にも、最後に食料の事が入っている。
私は、現在、仕事も無く、収入が無いのだが、托鉢に出掛けなくても、食料は皆さんが持って来てくれたり、宅配便で送って下さるので、実に有り難い。
そのお陰様で、毎日瞑想を続けられ、答えを文章化出来ている。
中国の文化で一番の傑作は、漢字の存在である。インドの釈迦は、2500年前の人だが、中国には5000年も前より、釈迦の概念に似たモノは存在している。
人間の存在は、「品物」なのか、「魂(命)」なのかの疑問は、人間の意識が生じた時点からの、課題だった様だ。
「付」の漢字は、人が左腕の脈を、右手の親指で看ている象形である。
「寸」は、左腕と、右手の親指の事だから、「一寸(スン)」とは右手の親指の長さであり、「一寸見(ちょっとみ)」とは、しばらく自分の心拍数診る事で、自分の脈を計る事から来ているのではないだろうか。
「寺・ジ」は「止+寸」の組み合わせで、出発点の線の前で暫く・一寸立ち止まり、自分の脈を看(はか)ることを意味している。
自分が行動を起す前に、自分の脈拍をはかり呼吸を確しめる。其の事を、実行している人の教えを、書いた書物を、保管する建物の名が「寺」である。
神社の、蛇の比礼や、蜂の比礼の理・ことわりを文章にすれば、寺が必要と成って来る。其れが、政治的な事であれば、政府・「府(广+付)」の建物と成るのだ。
人間が、死んで「物」と成ったのか、其れとも「霊宿・ひと」として、生き物であるのかの境界に、「寸」の世界が有るのだ。
其の一寸の世界は、神と、人体との間に、魂として存在している。
其の絡繰・からくりを知った釈迦は、一番の「懶・ものぐさ」を実行している。
6年間もの、ものぐさを続けた結果、全ての物種の原因を理解したのである。
現代の世の中は、働く事が「善」であり、懶・ものぐさをしている人間は「駄目人間」とされる。
現在の日本は、ものぐさ人間である「釈迦・仏教」は許されず、「働く事が善」であると説いた「孔子・儒教」の教えが、教育の基盤と成っている。
一寸と立ち止まって、脈を診ている人は、社会の流れから取り残されてしまうのだ。
早い呼吸を続け、脈拍を高めて居なければ、存在出来ない世の中が、そう長く続く分けが無い。何故なら、この世の物種の量には、限界が有るからである。
十種神宝の中の、四つの玉は、宝石的な価値が有る物ではなく、生命を左右する働きを意味する物である。
死にそう(脈が止まり掛けている)に成っている者を、どの様にして救うかに、古代人は悩んで居たのである。
現在では、緊急医療が発達したので、「死反玉・まかるかえしたま」も必要なくなった。
十種神宝の意味を、現代風の言葉に置き換えるとすれば、身心の健康管理の道具と言えるだろうか。無論それは、自分だけの精神ではなく、先祖代々の魂が同居している事を、含めての意味である。
釈迦仏陀が説いた様に、人間は、死んだ時にただの物体だけに成るのではない。我々は、生物を動かしている、根本の力(はたらき)に気付かなければならないのだ。
全てに、行き詰まっている現代社会で、本来の姿に立ち返る為には、「道反玉・ちがえしのたま」の意味を、思い出さなければならないだろう。
私も、肉体と言う物に、魂しいと呼ぶ生命電気が流れて、心臓や肺という物種の働きで、生を受けている。
言葉が少なく、文字が発達していなくて、教育体制が整っていなかった古代社会では、「十種神宝・とくさのかんだから」は一番の文化保存の方法だったのだろう。其れに替わるのが、現代社会のコンピューター機器である。
コンピューターに、どんな生きた情報を込められるかが、此れからの人類の課題ではないだろうか。
平成15年8月7日
礒邉自適
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