2003/8/4
物の名
15・8・4
今朝、瞑想をしていると、「浜木綿・はまゆう」の花と「山牛蒡・やまごぼう」の花が映って来た。
海岸に、自生している植物の花と、山野に、自生している花が両方映って来たのには、どう言う意味が有るのだろうか。
両方とも、白い花で、夏に咲く草花だし、今が丁度その季節である。
8月に入って、私の気持ちは穏やかで、身の回りにも特別な事が無く、聖霊達も静かなので、頭も思考が停止してしまっている様だ。そんな中で、夏の白い花が映ってきた事に、どう言う意味合いが有るのだろうか。
浜木綿も、山牛蒡も、食料にするものではないし、花を切り花として使用する物でもない。私の思考が止まっている為に、是と言ったヒラメキも無いので、浜木綿の名を辞典で調べて見た。
「浜木綿」とは「ハマユフ」で「ハマオモトの別称」と載っている。
浜のオモトなので「オモト」を調べると、「おもと【万年青】」と有り、年中葉が青いからの様だ。浜に生える、年中青い植物の意味合いの様である。
一方「山牛蒡」の方は、単に「山にある牛蒡」との意味で、牛蒡は「キク科の植物」と載っている。
牛蒡は、中国原産で日本に持ち込まれたとの事なので、牛蒡の名は中国名という事に成る。オモトの方も、中国音の烏木毒(wu-mu-tu)からの様なので、両方の名が中国で付けられたことに成り、日本には元々呼び名が無かった事に成る。
中国で、植物に名前が多く付けられたのは、植物が薬に利用されたからであろう。アマゾンに住む原住民も、樹木の名前を500種類程知っているが、殆どが、薬効の意味が木の名前と成っている様である。
と言う事は、人間は、自分に利用価値の有る物には、名前を付けるが、価値の見出せない物には、名前を与えないとの事の様である。
其れは、人間の気に成らない物には、名前は必要無い事になる。
その様に考えると、園芸に興味が無い人には、花の名前等どうでも良い事になり、そんな人達ばかりに成れば、花の名前は忘れ去られ、名前が無くなれば、花自体も栽培されなくなり、自然の中に自生する植物以外は、消えてしまう事に成る。
浜木綿や、山牛蒡は、自然の中に勝手に生えている物だから、人間が名前を与えなくても、永遠に生存出来ることに成る。
人間社会は、言葉に因って成り立っている。言葉は、名詞から始まったと想われるので、物に名前を与える事から、文化が生じたと考えて良いだろう。
物に、名前が付けられていなかった大昔には、人間の思考は、どの様に働いていたのだろうか。
私は、此処数日、思考が止まっている。だから、白い花が映って来たのだろうか。人間が、勝手に付けた名前を、浜木綿(浜万年青)も、山牛蒡も嫌がっているのだろうか。
白い花は、赤や黄色の色が付いていないので、色彩を特色として呼ぶ事が出来ない。白いだけの花でも、花の形状は異なっている。その形状の違いで、私達は識別をしている。そして、その形に因って食べられる物か、薬として使えるかどうかの、区別をし、名前を与えて来た。
食べられもせず、薬にも成らないで、花の色彩が美しくもなければ、人間に名前を与えられ、利用される事が無いと言う事に成る。
私を捜し出した無庵師匠は「自適さん 名前を出さないでも 生きていける人間が 一流なのだよ。有名な人は 名前を出さなければ 生きていけない人なのだから 二流の人達なのだよ」と、教えてくれた。
この事からすると、今朝の白い花のメッセージは、色も無く、人間に食べられも利用もされず、名前も付けられずに、生きて行く事が、一番大事だと教えて来たのだろうか。
数日、思考が動かないので、食べ物が悪くて、脳味噌が駄目に成っているのかと想っていたが、そうではなく、私の業・カルマが、皆外れたとの事なのかも知れない。
私の脳が、生れたばかりの子供の様に、物の姿形は目に見えていても、何一つ名前を知らない、無垢のままの状態に、返ったと考えて良いのではないだろうか。
私が8年前、中国の王様の体に、針を打っていた人の子孫に、合計7回針を打って貰った事がある。その方が言うには、王様は、北を背にし、南を向いて深く椅子に座り、背筋を真直ぐに伸ばして、頭で何も考えてはいけないのだと教えてくれた。
私の意識が、現在その様に成っているのかも知れない。
今朝の白い映像は、初めに浜木綿の花が、四本横に並んで咲いていて、次に山牛蒡の花が三本纏って咲いていた。四本並んでいた花から、三本纏った形へと移った。浜木綿の花弁は6弁であるが、山牛蒡の花は小さい花が数え切れなく付いている。
其れ等の形状が、何を現しているのかは分からないが、名前が無くても、花は其々の形を護って役目を果たし、遺伝子を伝え残しているのである。
私が、人類にとって、どんな形状の働きをし、雌花の役目なのか、雄花の役目なのかも、未だ明確ではないが、他人に名前を付けられない生き方をしなければ成らない様である。
チベットのゾクチェンの教に
「大いなる 完成を知るには
最高峰の頂上に 立つようなものだ。
いかなる高さの山も 神秘には見えない。
視界から 隠されているものは 何もない。
この最高の山頂に立つもの 彼は 決て 誰にも
そして 何物にも 条件付けられることはない。」 と有り
ミラレパの教には
「悟りとは 宇宙に関する 知識ではなく
宇宙の本質を 生きる経験に 他ならない」 とも有る。
私の思考が止まり、白い花が映って来たと言うことは、私の潜在意識が、植物のシステムにまで、返り着いたとの事だろうか。
数日、頭が動かない事を気にしていたが、此の儘で良いらしい。私も、未だ、有る方が善いとの考えが、有った様である。
中国の荘子の語に「至人無己」とある。
私も、ようやく、古代の偉人の年令に、近付いているのだろうか。
平成15年8月4日
礒邉自適
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。