自適随筆
私の思考だけで書いた文集
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2003/8/22
「念願の屋久島縦断」
故郷
念願の屋久島縦断
15・8・22
今月18日の朝、7時に自宅を出発して、19日の午後4時半に、永田集落のバス停が有る永田橋に下山した。
お盆を含め一週間悪かった天候が、18日に回復したので、岡山の伊丹さんと二人で、島を縦断する為に出発した。
淀河登山口を8時に出発し、花之江河〜 黒味岳〜 宮之浦岳〜 永田岳(一泊)〜 鹿之沢〜 永田バス停の行程である。
私の登山歴は、宮之浦岳に中学一年14歳の時、学校の遠足で小杉谷の分校に一泊して登り、次は昭和35年・16歳。
花之江河は、昭和48年夏・26歳が最後である。
だから、宮之浦岳には42年振りに登った事になる。
17歳の秋に、父親が亡くなって農業を継いだので、遊んでいる余裕が無くなってしまったのである。
長年、屋久島の地図を見ながら、一度だけでも、自分の生れた島を、安房から永田まで縦走して見たいと念っていたのである。
私は、日本国中は旅をしたが、自分の生れた島の、中心を貫いた事が無いのである。
島に生れ育った人でも、年配の人達は、縄文杉に行った事の有る人は少ないし、まして、奥岳を縦走した事が有る人は稀である。
東京生まれの人が、東京タワーに上った事が無いと言うのと同じ事で、地元の人間は、いつでも行けるのだから、其の内にと想っている間に、月日が経ってしまうのである。
私も今回も、伊丹さんが「縦走したいので 案内してくれ」と、云って来なければ、一生、念いが叶う事は、無かったかも知れない。
山中で一泊する事になるので、食料と寝袋と雨合羽をリュックに詰め、記録を撮る為にビデオカメラとカメラを準備した。
淀河・黒味岳・宮之浦岳と、写真を撮ったりビデオを回したりしながら歩いたので、永田岳に着いたのは、夕方5時過ぎに成った。
其れで、初めての道なので、暗く成ったら危険だと意い、永田岳頂上の岩窟にて一泊する事にした。
岩窟には、永田の住民がお祭りしている山の神様の祠があり、その祠の横の平らな部分で、寝る事に決め、夕食を済ませた。
午前中青空で、見通しも良かった山頂も、黒味岳を過ぎ、宮之浦岳に差し掛かる頃には、南の方から、山の斜面を上って来たガスで被われ、周りの景色が見えなくなった。
其のガスも、夕食が済む頃には、空気が冷えて来て、風の強さで何処かに消えてしまい、眼下に、永田の集落が見え、街灯の灯りが光り出した。
海上には、口永良部島を土台にして、雲が立ち上がっており、その雲の上は夕日に染まり、紅色に光り輝いている。
足元の切り立った岩壁の下は、黄昏の空とは対照的に仄暗く、岩肌には白い靄(もや)が棚引き、木々のシルエットが浮かび上がっている。
1886メートルの山頂から、一気に駆け下る視界は、屋久島でも永田岳一ヶ所だけである。
その神秘的なパノラマに、意識を奪われていると、Tシャツの上に合羽を着ただけの身に震えが来たので、慌てて岩穴に帰り、寝袋に潜り込んだ。
岩窟の中が暗くなるほど、頭上の岩の隙間から見える「北斗七星」の光が輝き出し、6万年振りに近付いた、火星のある満天の星空を、見たいとの気持ちはあるのだが、ヒューヒュー鳴っている風の音を聞いていると、身体の震えの事を思い、外に出て行く勇気の無いまま眠ってしまった。
朝6時頃、外に出て見ると、屋久鹿の家族が、目の前で、屋久笹の葉を食べており、太陽は既に雲の上に昇り、島の峰々は、朝の光に照らされていた。
東の方を見ると、私の産れた松峰の裏山である「明星岳(ボツタケ)」651メートルも、斜め向うに小さく眺められる。
子供の頃から、明星岳にはよく登り、山頂から島の奥岳を眺めていた。
今回は、子供の頃とは反対に、永田岳から、朝日に照らされてキラキラ波頭が光る海原を背景に、黒いシルエットで浮かび上がる、明星岳を眺める事となった。
16歳の夏、宮之浦岳山頂から眺めた明星岳と、40年経って、56歳の夏に眺める故郷の明星岳は、その佇まいを、何も変えてはいないだろう。
今朝、40年前のその時、山頂の岩に座っている写真を、アルバムを取り出して見ると、未だ、あどけなさの残る16歳の少年である。
一年後父親が亡くなって、責任重大に成る事の予感も、無かったであろう。
今回、永田岳の山頂から40年振りに、自分の意識のフィールドの中に立つ、シンボルの山を視ながら、何も変化していない自分を感じた。
40年の歳月には、説明し難き、様々な事柄が詰まっている筈である。
其れが、熊笹だけが広がる、山頂の岩の上に座って、景色を眺めていると、何も浮かんで来ないのである。
人間にとって、山の存在とは何なのであろうか。
古代から、山の峰は、信仰の対象とされ続けて来た。
其れは、何かが在るからなのか、何も無いからなのかが、良く解からなく成って来た。
何も、無いからこそ、人間が神の叢祠を設置する事が、許されて来たのだろうか。
山の存在とは、人間に、何かを齎(もたら)すものではなく、人間の魂を空白にして、源点に返すものなのかも知れない。
自然の営みから外れてしまった人間社会は、人間が、脳で生み出した現象ばかりの世界である。
其の中で、生れ育った人間は、頭がゼロ(空白)に成る事は無い。
男性が、神社で白装束に身を包んでも、女性が結婚式で白無垢の花嫁衣裳を身に着けても、今や其れは、恰好だけで、意義の伝承が守られていない。
白い布に身を包むとは、自分の魂を一度空白にして、純粋な気持ちに返って、新しい現象を受け入れて行く事である。
私は今回の山登りで、16歳の私と、40年経過した56歳の私は、根本的な処は、何も変わっていない事を自覚することとなった。
人間の意識の構造は、情報を記憶する仕組みと、絶えず、真白の空白に保つ仕組みが、両方完備されているらしい。
普通の人達は、詰め込む事を善とし、空白になる事を、良くない事としているのだ。
昔の人は、自分を空白にする事で、神意が、自分の内に入り込んで来ると考えていた様である。
私には、永田岳頂上の岩倉の中で、漢字二文字が現れたが、その漢字自体も忘れて思い出さない。
今日で、山から下りて三日目と成るが、意識は未だ、空白のままである。
思い出すのは、淀河から、縄文杉への整備された歩道ではなく、その道から外れて永田岳へ続く道と、永田岳から鹿之沢へ続く荒れた山道である。
熊笹に被われた道には、雨水で洗い流された、深さ2〜3メートルの穴が至る所に開いている。
一人で落ち込んだら、這い上がる事が出来ない所もある。
宮之浦岳を後にし、永田の村側に下るまで、誰一人も出会う事は無かった。
同行者の伊丹さんも、私が話し掛けなければ、自分から、何も言い出さない方だったので、前を歩く私は、自分の思考だけで、進んでいく事が出来たのである。
誰とも会わず、何も話さず、初めての道を歩くその行為は、自分の意識を浄化するのに役に立ったのだろう。
沢の水を、ペットボトルに汲み換えながら、進んで行くのだが、幾等飲んでも汗に成って出るので、トイレに行く必要も無い。
それだけ飲む、水の量の多さも、身の穢れを浄化してくれたのであろう。
何度も、山道で出会す屋久鹿も、互いが気付いてから、顔を見合わせて、見詰め合っていた。
人間が、次に動き出さなければ、しばらくは目の前に立って、此方をジィーと見ている。
永田岳を7時17分に出発して、永田橋のバス停に着いたのは16時47分だったので、丁度9時間半掛かった事に成るが、途中の川で、一時間程水遊びを楽しんだので、8時間ぐらいの道程だろうか。
私は、荷物を背負っての、登山は始めてである。
弁当だけを持って登り、帰りは手ぶらで走り下る登山とは、三倍程の時間差が在る。
今回は、特に撮影が有ったので、景色もゆっくりと眺めながらの、行程と成った。
下山して、バスが発車するまで、一時間程時間があったので、酒屋でビールを買って、永田の村の中を流れる冷たい用水路に、登山靴を脱いで、熱った足を浸しながら飲んでいると、雲が掛かっていた永田岳の山頂の雲が切れ始め、全体が現れて来て、9時間半の道程の距離が把握出来た。
私は、此れから、島内一周の案内をする時に、永田岳に登った体験を話す事が出来ると思った。
島の奥岳が、直接里から望めるのは、この永田地区だけである。
山頂が隠れない内にと意い、ビデオと写真を撮った処で、丁度バスの発射時間となり、他には誰も居ないバスに二人で乗り込み、車中の人と成った。
平成15年8月22日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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