2010/2/14
生きる
22・2・14・5・45
現在・いまの時刻は、午前5時45分である。
昨夜は、何のメッセージも無く6時間ほどぐっすりと眠った。
其れに、頭からは、神様の事も、仕事の事も全て消えている。
しかし、其れは、思考が全部消えているのではなく、全てが、上手く進んでいるからこその、安心感の中に在る状態なのである。
こんな意識状態を、私は是まで、実感した記憶が無い。
是こそが、「安心立命・あんじんりゅうみょう」の、言葉の意味なのではないだろうか。
何故、是まで、此の様な気持ちを、私が体験した事が無いかと謂うと、小学校4年生の頃に、父親が胃潰瘍で洗面器に大量の血を吐いて、其れを見た私が、父親を護らなければ成らないと、意ってしまったからであろう。
其の父親が、私が17歳の秋に亡くなって、長男である私は、四人の弟妹を母親と共に、守らなければ成らなくなったのである。
そして、37歳の時(1983・3・18)に「無庵師匠」に捜し出されて、翌年の6月4日(旧暦5月5日)に神の世界に入って、今度は、地球を守らなければ成らなくなってしまったのである。
其れから、25年8ヶ月が過ぎて、ようやく私には「何かを 守らなければ成らない」と言う「カルマ・業」が、外れたのかも知れない。
其の原因・理由を考えると、次の様な事が挙げられる。
・昨日、一日中ホテルの部屋に籠もって、今回の催しに付いての内容を全てアップしたので、遣らなければ成らない事が頭に無い事。
・「アルクトゥルス隊長」に出会って、未来への道が開いた事。
・「AKさん」に出会って、「讜逓聖・とうていせい」の動きが、現実に成る事が見えて来た事。
・屋久島の村造りを「小林竜也君」に任せた事。
・気持ちを緩める切掛けに成ったのは、昨日のメッセージで「三日後に 御焚き上げ」との言葉があり、其れをAKさんが引き受けて下さった事。
・昨日スーリアさん、松山さんと電話で話して、お互いに普通の気持ちの状態で、未来社会創造に向かって行ける事。
・私の意識の錨・いかりと成る、「自適塾」のHPを、屋久島で藤田さんが管理していてくれる事。
・1番重要な事は、自分の七人の子供や、身内に心配事が無い事、などが考えられる。
其れに、本日、那須のAKさんの所に行くのにも、大学の先生が、ホテルの前の駅まで迎えに来て下さるので、今朝、現実的に何の不安も無い。
「2・11 新大和発進」http://green.ap.teacup.com/20060818/1439.html
此の状態・様子は、白山菊理姫の本体である「白山権現」の白龍が、私の左手に地球を預けた事が、25年掛かって解決の目処が着いて、其の責任の荷が、私の肩から下りた事にも、成るのではないだろうか。
今朝は、何もメッセージが無いので、其の理由を探っていると、脳内のシナプスの様子が、イメージに捉えられて来た。
其れは、人間の意識はシナプスの枝から生まれており、其のシナプスの枝に芽生える芽は、三ヶ月で生まれ変わるので、絶えず、新しい刺激・情報を求めていると言う理・ことである。
処が、今朝は、其のシナプスの餌と成る、新しい刺激・情報が届かないので、私の潜在意識は、其のシナプスの焦り自体を、観てしまったのである。
其の、私の潜在意識こそが「観自在菩薩」や「観世音菩薩」の存在なのではないだろうか。
其れは、生命の基礎である、根底のシステムなのであろう。
其れを、我々人類は「生命・いのち」と、名付けているのではないだろうか。
漢字の「生・セイ・ショウ」は、地上に種子から芽生えて、生命力に満ち溢れて生えている、若い木の姿の象形文字である。
其れは、植物の地上部の姿であり、土の中で水分や栄養を集めている、根の部分は捉えられていない。
今朝、私が潜在意識で捉えていた世界は、其の地上の「生」の部分ではなく、地下部の毛細根の最先端の動きと言うか、働きの様な現場である。
其れを考えると、其の様な意味を表す漢字が無いので、4000年前の中国でも、其の理・ことに気付いた人が、居なかった事に成る。
其れは、現在の様な、電子顕微鏡で見るミクロの世界が無かったからである。
其の原因を考えると、私の意識には電子顕微鏡で解明された、ミクロの毛細根の絵が取り込まれている事に成る。
其れを考えると、私の意識は、近代科学の発達の影響を、受けている事に成る。
だとすれば、私の今朝の思考は、近代文明の成果に拠って、生まれている事に成るのだ。
是こそが、新しい概念と成るのではないだろうか。
何故なら、其の様なモノ・現象の捉え方は、養老孟司先生や中澤新一氏の著書を読んでも、無さそうだからである。
昨日は、テレビを点けたまま写真の整理をしていると、「養老孟司先生」と「宮崎駿監督」が対談しており、子供の育て方に付いて話していた。
私は、其の二人の話を聞いて居て、二人の話しには、落とし穴が有る様な気がした。
何故なら、本人・二人の子供の頃には、其の様な人工物は無く、ただ大自然の中で遊んでいたからである。
私が25年前、此の世界に入った時に、一番困った事は、潜在意識に浮かび上って来る生命の記憶と、子供の頃に読んだ本の内容や、映画の場面の記憶との、分類だったのである。
其処の区別が着かないと、現状には復活できないで、精神病院行きに成ってしまうのである。
其れを防ぐ為に、私は屋久島の山懐で生まれ育ち、また神様が、父親の精神構造に、「見猿・言は猿・聞か猿」の三猿を植え込んで、私に父親が「勉強しろ」と云わせない様に、図ったのであろう。
今朝の文章は、私の是までの情報量から生み出している、顕在意識の文章である。だから、是は、神のメッセージではない。
此の文章を、「神霊の思頼(みたまのふゆ)」や「約束を護る」のブログに、載せる分けには行かないだろう。
だとすれば、「自適随筆」のブログの方に、アップしなければ成らないと言う事に成る。
「自適随筆」http://moon.ap.teacup.com/20061108/
「生命」http://star.ap.teacup.com/2006413/
今朝の私の意識状態が、今後も続くのであれば、確かに、昨日のメッセージで告げられて来た「三日後 御焚き上げ」は、25年8ヶ月続いて来た「神霊の思頼(みたまのふゆ)」の、霊魂の御焚き上げの儀式と成る。
其れが、麻を燃やして行なわれるとの事は、日本の古神道の儀式が「大麻・たいま」で行なわれていた事が、復活する事にも成るのである。
是は、私に、新たな負担が掛かって来そうな気に成り、始めの「安心立命・あんじんりゅうみょう」の気持ちは、何処かに行ってしまった様である。
今朝、私が自覚した脳内のシナプスの動きは、潜在意識と顕在意識の中間なのか、其れとも、其の両方が統合されてのモノ・現象なのかが良く判らない。
どうやら、御焚き上げが済んでも、私のシナプスの動きは休みそうもない。
何故なら、其の働きこそが、生命がいきている証であり、宇宙の最先端の姿だからである。
そして、其の働きこそが、創造力の源泉なのである。
本日、訪ねる先は那須に在る「うるおいの里」である。
今朝の私の意識は、既に、其の「うるおいの里」に到着している様である。
肉体の方も、早く 後を追い掛けなければ成らない。
平成22年2月14日7時38分
礒邉自適
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