2000/8/25
覚者の仕事
12・8・25
「仕事」とは「仕えること」だが、何者に仕えれば善いのか、其れが人生最大の問題である。
仕えるとは、何かを支える理・ことでもある。
「支・シ」の漢字は「枝+手」の組み合わせだから、つっかい棒を持って、倒れない様に支えると言う意味になる。
しかし、何を支えたら良いのか、近頃、其れが明確でない。
仕事の仕は「人+士」で、「士」は、立てるの意味で「志・こころざし」の事である。
「こころざし」とは、心をさすことで、何か、心に挿さなければならない事になり、其の為には、何等かの仕方(方法)を見付けなければならないのである。
其の為には、自分(自らの分け)を知って、仕分けをしなければ、仕事が見つからない事になる。
其の仕分けが、千手に分けられ表現されたのが、千手観音菩薩の姿である。
その、千手に分けられた命・みことが「やおよろずの神々」で、それを神むすびするのが、「総大神」であり「王君・大王・スメラのみこと」である。
其の、総大神が現れてこそ、仕官の道がハツキリしてくるのである。
「仕方が無い」ではなく、仕方を明確にする必要に、迫られているのだ。
仕が絡むと「柵・しがらみ」と成って、事がスムーズに流れなく成り、「まつりごと・神むすび」が巧く行かない。
其の為に、柵を解くのがホトケの役目である。
其の「ホトケ・覚者」である釈迦は、其の「御事・みこと」に成る為の入口の門が、8万4000も有ると、説いたのである。
自分の業・カルマを解かないと、「リリジョン(religion・宗教)」の新しき神との結びが起きないのだ。
「天御中主神・あめのみなかぬしのかみ」は、「高御産巣日の神・たかみむすび(精霊の働き)」と、「神御産巣日の神・かみむすび(現世の働き)」と三神で、「造化三神・ぞうかさんしん」と呼ばれている。
イエスキリストは、「天御中主神」を「天の父」と呼び、「聖霊」と「子(この世のむすび者)」の三つの働きを説明している。
イエスキリストの言う「子」とは「仏・ブッダ」であり、大御心の親・「スメラの天津日継の司祭」・聖者の事である。
平成12年8月25日
礒邉自適
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