2000/8/20
神は水鏡で始まった
12・8・20
神は、水鏡から来たと言う伝説が有ります。
其の所為かどうかは分かりませんが、神社には鏡が供えられています。
昔の銅製の鏡では、人間の顔は、はっきりとは映らなかったのではないかと想いますが、其れでも鏡は、昔から長い年月伝え続けられています。
エジプトの、女神「イシス」の頭上にも鏡が付いております。
日本の山岳信仰では、岩鏡と言って、正面を向いた岩の平な面を、自分の魂を映す反射板として斎祈しております。
これらの事から考えると、「神様」の一番身近な処に、「鏡」が位置している事が理解できます。
私は、自分の体験から、この件を、次の様に理解しています。
人間は、神を意識する前に、自分を自覚する必要に迫られます。
神と言う、対象を見詰めるには、まず自分の自我がなくてはなりません。
その為には、自分の確認が必要ですが、其の自分に気付き、自我の確認をするのが、水鏡ではないかと考えられます。
日本語「鑑・かがみ」の語源が、「かがみ込んで 自分の影を見る」処から来ている様です。
自分の顔を、一度も見た事の無い人間が、森の湖泉に映る、自分の顔に気付いた時の驚きは、どんなものだったでしょうか。
其れが、自分の顔だと気付くまでには、多少の時間が必要だったと想います。
その顔が、自分の顔だと気付いた時に、人間に、「自分」と言う意識が生まれたのではないでしょうか。
最初の人間が、其れに気付き、後の人間は、その事を、最初の人に教えて貰うので、もう驚きは有りません。
其れは、もう当然の事としてしか、伝わって行かないからです。
同じ様に、現代の宮司や神官が、皆に見方を教えてしまうので、教わる側の人の意識を素通りしてしまい、当然の事としてしか、伝わらないのです。
教育も、総て、その様に認識が起きないまま、意識の表層を流されて行きます。
今では、誰の鏡にも、自分の顔は、絵に描かれたものでしかないのです。
其処には、神の神秘はもう見出せないまま、トキが悪戯に過ぎて行きます。
だから、今では、絵の映らない鏡に向かって「鏡よ鏡」の儀式を続けて、無駄な時間を使っているのです。
何故かと言うと、当然と成ってしまった現象は、認識作用を目覚めさせる力が無いからです。
「神は 水鏡でやって来た」確かにそうなのです。
最初に、自分を見た者、其れが神の本体なのです。
神とは、認識の別の云いか方なのです。
其の理に気付いた、釈迦牟尼佛は「私は目覚めた。ブツダに成った。」と、謂い放ったのです。
そして、天照大神は太陽神ですし、イシスも太陽神です。
鏡で自分を見るには、太陽の光りがなければ成りません。
人間は、太陽の光りに拠って、自分の自覚が起きたので、光が神と成ったのです。
神とは、「ただ今」の認識の中に住む働きなのです。
過ぎ去った、過去の意識の中にはいないのです。
鏡とは、ただ今の認識をする為の、神具なのです。
神は、水鏡で来たと言うのは、真実なのです。
其処にしか、真実の神の働きは有りません。
平成12年8月20日
礒邉自適
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