2002/8/31
洗濯
14・8・31
今日で、8月も終りである。色々な事が有った夏だったが、アッと言う間に過ぎ去ってしまった。昨日より、秋山氏の屋久島セミナーが開催される予定だったが、台風15号で飛ばされてしまった。
15号は、時速10kmのノロノロ運転なので、通り過ぎるのに4〜5日掛かっている。秋山氏も、何ヶ月も前から準備をして来たのに、残念に想っている事だろう。
参加者の中に、私に会いたいとの方も居たのだが、お流れに成ってしまった。秋山氏が、屋久島の神々に好かれなかったのか、参加者の中に精進が済んでいない人が居たからなのか、私には分からないが、秋山氏が使ったエネルギーが無駄に成った事は間違いない。
考えてみれば、私が自分の意志で参加したり、企画したりした催しには、1度も雨が降った事が無い。雷大雨注意報が出ていても、私がダンボール箱をカッターで切って祭壇を作り、塩や米を供えて柏手を打っておくと、雨が落ちて来ないのである。
天気が大雨で、主催者が「自適さん 今日は駄目だから中止しよう 」と云った時も、祭りが済む迄は雨が降って来なかった。其れでも、1度だけ風雨に見舞われた事がある。
それは、平成2年の夏に、熊本県阿蘇郡蘇陽町で行われた祭りで、私は6日間の予定で企画していたのだが、主催者側は9日間に延長してしまった。最後まで、私も付き合ったのだが、8日目に風が吹いて大雨が降り、学校に逃げ込んだ事が有った。
其れから、「いのちの祭り」には一度も参加してはいないが、数年続けて台風の直撃を受けている。私は、平成3年の春に、夢で台風が来るのを見せられたので、それから参加はしていない。
では、何故、他の人達が天候に恵まれないのだろうか。其れは、祭りの内容が、神の意志を反映していないからであろう。神の意志は、宇宙の真理を人間側が知る事にある。だから、人間が、自分の事を神に押し付けるのを、良しとしないのだ。
害の無い時は、ほっといてくれるのだが、神のはかり事の邪魔に成りそうだと、潰して来る。其れは、天候が一番扱い易いので、天気を左右して来るのだ。
その他には、病気や事故等で調整をして来るし、会社運営や、金や人を調整したりもして来る。其の人、其の人に合った、効果的な遣り方を採用して来るのである。其の事は、私がさんざん体験をしたので、自信を持って言う事が出来る。
「洗濯」の題名に、其れ等の話は関係が無い様だが、先に述べた事は、私達人間の事を、神が洗濯機に掛けているとの説明に使えよう。
今朝の霊夢は、山中に大きな研修施設の様な建物が有り、その建物の前面の所に横にロープが張ってあり、洗濯物が掛けられていた。
其の建物は、全て木造りのガラス窓が取り付けられて、光に包まれていたが、実際の建物ではなく、光のシルエットの様で、緑の森の中に浮かんでいた。
手前のロープに干された洗濯物は、現実的であった。
綿の服や、ズボン、下着が、手洗いで洗われ、クシャクシャのまま干されてある。洗剤も使わないで、山中の中で手洗いをした様である。
これは、何のメッセージなのか説明が無いので、自分で勝手にイメージするしかない。
昨日、待っていた秋山氏のセミナーの参加者がキャンセルになったので、秋山氏の思いが、何故屋久島に受け入れられなかったのか考えていた。
其の答えが、今朝の山中の洗濯物に、ヒントが有るのだろうと考えるのである。
「洗濯」の言葉は「命の洗濯」とか「神が 人類の 大洗濯をする」とかに使われ、汚れたものを水で洗って綺麗にする事を意味している。洗濯とは、物を捨てたり焼いたりして、無くする事ではない。
同じ物を再利用する為に、汚れを洗い落として美しくする意味を表している。だから、自分の身から脱いで、汚れや毛枯れ・穢れを払い落とす事を意味している。
神社の御手洗いで、口と両手を清める事と同じ意味を持ち、仏教信者が山中の滝で「六根清浄 六根清浄」と唱えながら、水に打たれる事と同じである。だから、洗濯とは、自分の身と心を浄化する事である。
今朝のメッセージは、山中での洗濯が大事であると告げて来たのだろう。
私は18年前、1984年3月5日から始まった修行が、秋まで続いた。
屋久島の、川や、海岸の岩の上に座って瞑想を続けたり、山中で、素っ裸で過ごしたりで、其れを数ヶ月続けたのである。正に、命の洗濯、身心の浄化であった。その行で、宇宙の記憶を取り戻し、生命の仕組みを体得したのである。
今朝のメッセージは、その事が大事であり、都会からの業・カルマを屋久島に持ち込む事ではないとの事ではないだろうか。
只の、見物旅行なら害は無いが、屋久島を宗教的に使用する事は、正しく使わないと、本土の修行場の様に、人間の欲望の渦巻く所に成ってしまいかねない。
本土の行場は、殆どの所が、神通力を得たいとの、人間のカルマ・業で一杯である。其処に出掛けて行って、自分を開け放つと、欲望の霊がスッと憑依して来る。現在、宗教で飯を食っている殆どの人が、この不成仏の霊に憑かれている人達である。
其の人達が、釈迦やイエスキリストが、してはならないと謂った事だけを遣っているのを見れば、其の事が良く理解出来るであろう。
自分の魂を、浄化した者だけが、宇宙の真理と繋がる事が出来る。
其れを、神社では「むすび」と言い、英語では「リリージョン」と言い、仏教では「覚者・ブッダ、ヨーガ」と言う。
釈迦は、教団を作る事を禁止しているし、老子は弟子を1人も採用してはいない。イエスキリストは、ヨハネに手伝って貰いバプテスマと言う洗濯をヨルダン川で行い、釈迦も池で洗濯をして、スジャータにお接待を受けている。
イスラム教でも、祈りの前に必ず手と顔を清らかな水で洗う。水は、人間の魂にとって1番大事な物である理・ことが理解出来る。
屋久島は、水の島と言っても良いだろう。屋久島ほど、水の豊かな島を、私は他に知らない。年間1万ミリも降る雨は、豊かな森林を育てている。其の深い森から流れ落ちて来る清流は、人の魂を浄化せずにはおかない。屋久島が、世界に誇れるものは、この水なのだ。有名になった縄文杉も、この水が育てたものである。
私は、其の屋久島に生れ育ち、37年間この水の内に在った。私は、屋久島の水の精なのかも知れない。愛媛でも、出雲でも、私が住んだ家は川の横だったし、奈良や東京に住んでも池の横だった。何処に住んでも、水が近くに有った。水が無い処には、私の守護霊は住めないのだろうか。
私が生れ育った松峰の家は、父親が裏山から孟宗竹を何十本も繋いで、水を引いていた。其処に、部落の人達が何十人も水汲みに来ていた。家の横には、大きな鉄鍋(砂糖製造に使う直径2m程)に、竹筒から流れ落ちる水音が、日夜休み無く聞えていた。
私の意識は、その水音の内で築かれて来たのかも知れない。今でも、水音を聴いていると、心が1番休まるのである。
私は、水音のする所で、木に寄り掛かっていれば、其れが、一番気持ちが良いのである。
「休」の漢字は、「人が 木に寄り掛かっている象形」である。「泰」の漢字は、「水+大」で「大」は「伸びやかな人の象形。水につかって体のよごれを落とし、ゆったりしている人のさまから、やすらかの意味を表す。」とある。
「休(やすむ)」も「泰(やすらか)」も「やす」が語源にある。「癒す」も「いやす」で、「人の悪い病を取り除く」の意味である。「医でやすらかにしてあげる事」がその意味の様だ。 漢語林より
癒されたい人が、屋久島の川で泰に成って、木に寄り掛かって休めば、皆お釈迦さんの様に成れるかも知れない。私は、其れに9ヶ月も掛かったが、私の体から直接情報をダビングすれば、もっと早いだろう。
私は、屋久島を訪れる人の、洗濯のお手伝いさんと言う事に成ってしまうのだろうか。
14年8月31日
礒邉自適
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。