2002/8/20
屋久島の翁(おじー)
14・8・20
私は7月2日より、18年振りに屋久島での生活を始めた。
18年の間に、数回屋久島に帰ったが、其の度に「生命の島」の代表である「日吉眞夫さん」には会っていた。
今回の帰島の際にも、自分の車を樹林に預けてあったので、宮之浦に船で着いて、真っ直ぐに「樹林」に立ち寄り、日吉眞夫さんに会って鍵を受け取った。
今日で、島暮らしは7週間・49日になるが、島を訪ねて来る友人達を、宮之浦港や空港から送り出し、帰り道には「樹林」に立ち寄って、お茶を飲みながら気持ちの整理をしている。
今年、最初に屋久島に8年振りに帰ったのは、4月23日だった。
その時にも、日吉眞夫さんには一番先に会っている。
其の時、日吉眞夫さんに感じたのは「理想的な翁(おじー)に成ったなあー」との印象だった。
私は少年時代から、老人の話しを聞くのは好きな方だった。
少年から、青年へ成長する段階で、お爺(おじー)や、お婆(おばー)の話は良く聞いて回ったと思う。
自分の両親が、島外の出身なので、自分のジィーやバァーが一人も居なかった所為もあって、お爺やお婆が物珍しかった事もあるだろう。
20歳の誕生日に、種子島に在った農業試験場の場長さんを訪ね、夜中3時まで話して、それを最後に「話しを聞きに回るのは止めた」と思っている。
私には、その場長さんが、自分の親しい翁(おじー)の姿として、長い間意識の中に納めてあったと言える。
其れが、今回、8年振りに日吉眞夫さんに会って、以前は感じていなかった翁を強く感じて、私の内の翁の姿が、入れ替わってしまった様である。
私は、屋久島に帰る前は愛媛県の伊予中山に住んでいた。
四国で日吉眞夫さんに頂いた手紙に、「山尾三省さん」を失った悲しみが書かれてあったので、少し心配をしていたのだが、日吉眞夫さんの静かに落ち着いた姿に、人間の体験の深さを感じ、そして大きな河の澱みの深い静けさを、受け取ったのである。
日吉眞夫さんは、静岡の出身だとの事。
日本の最高学府と呼ばれている東京大学を出て、会社経営の後、屋久島に引っ越して来たと言う。
私は、中学迄しか出ていないのだが、日吉眞夫さんは、其れ等の学歴差は別に気にも成らないらしい。人間として目指す処が、同じだからだろうか。
お互いが、目指している「モノ」は一体何なのだろうか。
山尾三省氏は、縄文杉と名付けられた老杉を「聖老人」と呼び、心の支えとしていた様である。
屋久島生まれの私にとっては、縄文杉も只の杉であり、私が求めるのは、やはり完成された人間像である。
釈迦や、老子は、写真も自画像も残っていないので、映像として記憶装置に取り込む事は出来ない。
私がイメージとして捉えている人格像は、夢に出て来る人達が主だが、現世的にはレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像の老人顔が好きである。
私の父親は49歳で亡くなり、私は当時17歳で、未だ、第二反抗期の真最中だったので、自分の気に入った父親の面影が無い。
だからと言って、天皇の写真とかを家に飾る事や、その様な風習が我が家には無かったので、私は慣れていないし、宗教的な教祖の写真も無い。
日吉眞夫さんの姿が気に入ったからといって、日吉眞夫さんの写真を飾るわけにも行かないだろう。
イメージの中に、友を思う時、日吉さんの顔が真っ先に浮かべば、それで良いのではないだろうか。
「朋・とも」と言うものは、そうであって良いものと想える。
55歳を過ぎた人間が、自分の心を置き去りにして、今さら、翁(おじー)を求めてウロウロして歩き回っても、態・さまに成らない。
私にとって「日吉眞夫氏」は、自分が翁(おじー)と成って行く為の、手掛かりなのかも知れない。
昨日、日吉眞夫さんに会って「冬季号に 物知り爺さんの特集をするので 自適さんも文章を書いたらいかがですか」と薦められ、その気に成って取り組み始めたら、今朝の霊夢に「手掛かり」との言葉が出て来た。
其の夢の解釈は、別紙に記したので、此処では触れないが、私達人類の最大の目的は、後世の人達の人生に対して、何がしかの、手掛かりを残すべき事なのではないのだろうか。
「生命の島」冬季号の特集には、多数の屋久島のお爺や、お婆の話が載るだろう。其れ等も、後世の人達への、置き土産なのではないだろうか。
私達人間の思考は、言葉に因って組みあがって行く。
其の、基礎に成っているのが、小さい時に聞かされた昔話である。
子供の頃から、耳にした其れ等の話は、今でも脳裏に残っており、自分達が生活する現代社会に、其のオバケや、山ん婆や、川の主、湖の主が、何時でも現実感を伴って現れて来る。
昔話しを、聞いた事の無い現代っ子は、川を見ても沼に行っても、其処は、只の川であり沼であるから、恐い者は住んでいない。
だから、ゴミを捨てても平気なのである。
木や、岩に、霊が宿り、火や水も神が住んでいるとの理・ことは、学校の教育で教わる事は無い。
科学的でない事は、迷信だとされ、世の中に害有るものとされて来た。
その結果が、自然破壊の現代文明である。
現代建築の住宅から、縁側が消えて行き、日なたボッコをする、お爺やお婆が居なくなった。縁側が家から消えて、人の縁も薄くなってしまったのである。お爺や、お婆が現存しても、その舞台装置が無くなってしまったのだ。
現代の若者の視線は、手中に有る携帯電話に四六時中注がれている。
せめて、そのモバイル・移動画面の中にでも、お爺やお婆の姿を映し出して、知恵袋としたらいかがなものだろうか。
日本語の「オトナ」は、大人や成人の漢字に置き換えてはならない。
「オトナ」の言葉の元は、「オキナ(翁)」であり、「オキナ」が「オテナ→オトナ」と成ったとの事である。
「翁」は「鳥の様に見える 髪と髭が伸びた、老人の姿」の象形文字である。
其れは、「長生きをして、多くの体験を通しての 知恵を有した人の事」を意味している。
その老人の知恵は「考」の漢字の意味で、「年取った 老人の体験に 因る知識」の事である。
漢字を見ると、日本に取り入れた時に「知」と「考」を逆に使用した事が分かる。
「知」の漢字は「手に持っている矢を神に返して 神の言葉(口)を受け取る」の意味だから、「知」とは「神の意見を受け取る」の意味で、「神返る」から「かんがえる」の日本語となり、「考」の「かんがえる」は、「しる」者の意味である事が分かる。どこかで、手順が狂っているのだ。
其れ等の事も、何時か、誰かが訂正しなければ、永遠に、言葉の間違いが継続されてしまう事になる。
もう一つ謂うならば、「オンナ」は「女・ジョ」ではない。
「女」は「男や 権力者に ひざまずく 不自然な女性の姿」の象形文字である。
「オンナ」とは、元は「オウナ」であり、漢字は「嫗」と「媼」と二字がちゃんと存在する。「オウナ」とは「年取った女性が、子供を温かく優しく抱きしめて、暖かい息(言葉)を掛けてやる」との、意味である。
言葉の意味が変化してしまうと、本来の言葉の持つ力(パワー)が失われ、それと正比例して、真理も失われていく事に成る。
私達の年代が、最後の砦と成り、正しい日本語の語り部と成らなければ、シャーマニズムの世界も「といがたり」の世界も、途絶えてしまうだろう。
「とわずがたり」との日本語も残っているが、現代社会では、シャーマンが一人で語り始めても、変人扱いにされるか、精神病院行きである。
誰も、耳を傾ける者が居なくなった社会には、霊界からの知は、遣って来ないだろう。
明日は、旧暦の7月13日である。
お盆が旧暦で行われていれば、明日が迎え火を燃して、先祖の霊を迎える日である。今年のお盆は、精霊流しをして終ったが、8月15日は旧暦の7月7日、本来の七夕であった。
屋久島では、初盆(今年亡くなった霊が居る家)の家は、川に灯明と供養物を乗せた小舟を流して、霊を送り出す事をする。
今年も、其の行事が、私の家の前の安房川で行われた。
小舟を川に流すと、初盆に、都会から帰島した人々も、「やれやれ これで済んだ」との安堵の表情で、川岸から離れて行く。
今年のお盆に、何人の人達が、先祖霊の話しを聴いて上げる事が、出来たのだろうか。
お盆の行事は、本来は仏教行事ではなく、古神道の行事である。
旧暦の7月13日に、先祖の霊を迎える為に迎え火を燃して、ご飯を茶碗に山盛りにして、草の箸を立ててお供えをする。
そして人間側は、水で禊をして、先祖の霊を迎えるのである。
此れが、古来の神道の夏禊ぎの儀式だったのである。
其れが、いつの間にか釈迦の弟子の、母親の供養物語りに置き換わってしまった。
仏教では、寺のお坊さんが遣って来て、お経を唱えて帰って行く。
其れで、お盆の儀式は済んだものとされている。
本来はそう言うものではなくて、先祖の霊と会話をする事が目的であったのだ。
其れが、一家の代表、部族の長・オサの役目であり、そう言う能力の備わった者でなければ、オサの目(意)として治める事は、不可能だったのである。
其れを、「シャーマン」と呼ぶか、「オサ・長」と呼ぶか、「語り部」と呼ぶかは、文化、民族の差であろうが、基本的には皆、同じ様な役目だったと想われる。
其の中でも、力の抜きん出た者が、永遠に、部族と地域の護り神として、村や郡を見渡せる山岡に、祭祀されたものと思われる。
現在では、天皇家だけが、其の伝統を受け継いで居る様だが、天武天皇が日本書紀の編纂を命令し、次の持統天皇の時に18の部族の儀式を統一するまでは、其々の部族が「墓記・おくつふみ」を傳えていたという。
それ迄は、アイヌや沖縄の人達を除いても、18の部族に、長が存在した事になる。
昔は、部族ごとに、語り部が存在して、日夜語る物語には、其々部族固有の特長が有った事だろう。
其の頃(1300年前)屋久島には、どういう長が村に居て、何を伝えていたか、今は知る事は出来ないが、日本書紀には、「西暦616年に、夜玖の人3月に3名、5月に7名、7月に20名、都(奈良の飛鳥)に来て、30名とも帰らずこの地で亡くなった」と記されている。
30名もの人が、何で屋久島から都へ出て行ったまま、帰らなかったのだろうか。
私は、自分の不思議な体験から、「屋久島の山々は 神の住まいであり、30座の山の神が 人間の体を借りて 都へ上ったのでは」と、考えてしまう。
其れから、都・飛鳥では大化の改新(645年)と、時代は大きく動き出し、667年の近江遷都へと時代は変化して行くのである。
天智天皇で、神中心の祭り事(政治)に成ったかに思えた国の祭り事も、天智天皇崩御の後、政治は再び奈良の地へと還って行く事になる。
私は今、屋久島の色々な事を見ながら思うのは、616年に出て行った屋久島の30座の神々が、人の体を借りて、元の位置に帰って来ているのではないかと言う事である。
其の内の一神が、日吉眞夫氏ではないだろうか。
後29名が、誰なのかは判らないが、私も、屋久島に帰った側の二代目に当るのではないだろうか。
世界は、新しい価値観を求めて、大きく転換をしようとしている。
其の「烽火・のろし」が、何処から上がるのか分からないが、屋久島は大きな可能性を抱えていると想う。
新しい革命は、昔の様に、他国を攻略し、自分の価値観を押し付ける事ではない。
現在の社会状況を見れば、インターネットの存在を無視する事は出来ない。
インターネットに真実のデザインが書き込まれれば、世界中が何処からでも、其れに参加する事が出来るのである。
恵まれた自然環境の屋久島なら、都会に産れ育った人達が忘れてしまった、魂の源点からのデザインが、可能である。
日吉眞夫さんが名付けた「生命の島」は、其の事にピッタリの名称であり、テーマである。其れに、「日吉眞夫」の名も「吉の太陽、中身の一杯に詰まったまことの夫」と言う意味に成る。
「眞」は、中身がいっぱいにつまっていて、ほんもの、まことの意味をあらわす。 漢語林より
「名は体を表す」と云うが、その言葉通りである。
日吉眞夫さんと「生命の島」が、忘れ去られて行く屋久島の物語を、守ってくれると感じるのは、私一人だけではないだろう。
本物の、屋久島の翁(おじー)が居なくなる現状において、日吉眞夫さんは「名物・屋久島のおじー」に成れるのではないだろうか。
「樹林」には縁側は無くても、それ以上の縁側的働きをこなしているのだ。
私は、是からも「樹林」を心の癒しの場として訪ね、日吉眞夫さんの翁(おとな)振りを見続けて行きたい。
私も、若者達の人生の手掛かりに成るべき修行を、是からも続けて行きたいと意っている。
其の為にも、日吉眞夫さんは良き手掛かりであり、「生命の島」は舞台でもある。其れが、両方とも長く続くには、日吉さんの健康が第一である。
其の事を念いながら、私の意見としたいと想う。
14年8月20日
礒邉自適
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。