2002/8/3
前面に出ているモノ
14・8・3
昨日、8月2日の日記には、「・・・植物は、花などの生殖器を前面に出しているが、昆虫も動物も人間も、生殖器を一番後にもって来ている。その代わり、動物は、鼻を一番前にもって来ている。此れは、植物は、小鳥や昆虫に、人間や小鳥や昆虫などの動物は、皆植物にお世話に成っている証拠である。
花の蜜や果物を探す事が、動物の源点に位置するからであり、植物も小鳥や昆虫の存在が無ければ、ただ風が頼りでは、頼り無いだろう。・・・」と、書いた。
昨日夜明けに、フトその仕組が、イメージ化されて浮かんだので、書き留めて措いた。
其の事を、もう少し具体的に、イメージ創りをして於きたいので、ペンを持つ事にした。
私は、子供の頃から、母親に連れられて、毎日、畑の農作業に付いて行っていた。だから、私は、物心付いた時より、農作業は必要不可欠なものとして、自分の意識を占めている。
母親は、午前中にカボチャ畑に行って、雄花をちぎり取って、周りの花弁を皆取り除いて、中の雄花の芯だけを残し、雌花の所へ行き、雌花の花弁の内の芯に花粉を着けて、受粉をして廻って居た。
其れは、天気の良い日は、花蜂などが飛んで来て、受粉を助けるのだが、曇りとか、雨降りの日は虫が飛ばないので、その日咲いた花は、人間が手助けしてやらなければ、せっかくの開花が、無駄に成ってしまうからである。
花は、決まったサイクルで蔓の節に生じて、日にち通りに大きく成って行くので、雨の日だから咲くのを止めると言う事が出来ない。
だから、人工的に助けて遣らないと、雨の多い年は、実の数が少ないと言う事に、成ってしまうのである。
無駄無く、花を結実させようと思えば、受粉を助けて遣るしか、他に道が無いのである。
だから、私も小さい時から、その手助けをさせられたのである。
それと、私の実家は農家なので、馬、牛、豚、鶏、山羊を飼っていたし、其れに犬猫も居た。
だから、牛馬や豚の種付け(交尾)は日常茶飯事であるし、鶏は毎日交尾しているし、山羊も犬も交尾を繰り返すので、学校で改めて性教育を受けなくても、雄雌、男と女の性の仕組みは、子供の時から解っていた。
そして、植物も同じ仕組みである理・ことを、自然に理解出来ていたし、虫達の交尾も自然の中で、いくらでも見受けられたのである。
其れ等の環境で育った私だから、その仕組みが、自分の認識の内に修まっているので、昨日、潜在意識がフト表に現れたのではないだろうか。
私自身も、動物の仕組みで肉体が出来上がっているので、動物的本能が備わっている。
だから、行動は動物と同じで、雌を求める為に鼻を前に出して動き回っている。
其のシステムが、無意識から表へ出て、イメージとして意識に上って来たのだろう。
そして面白いのは、私の意識の対象が、人間の女性に向わないで、花の雌蕊・めしべに向って、映像を想い浮かべた事である。
私の無意識は、動物の同じ仲間の「雌・女性」ではなく、植物の「雌蕊・めしべ」へ向ったのだ。
順位としては、雌蕊を求めるのは雄蕊・おしべであり、其の花の花粉や蜜を求めるのは昆虫であり、昆虫の鼻が、其処に位置していなければならない。
そして、花粉や蜜でお腹を満たした昆虫は、次に、意識が交尾相手を探す為に、尻尾の方に向き始める。
昆虫から、人間までの行程は飛ばしたにしても、私の無意識が、いき成り植物の雌蕊に向かうのは、時間と空間を超越してしまっている。
この事を、「感性が有る」と一言で云ってしまえば簡単な事だが、其のメカニズムは何なのだろうか。
植物の花の雌蕊と、人間の雄の間には、何十億年かの時空の間・はざまが有るはずである。
其の長いはざまを埋めてしまう何かのシステムが、存在するのだろうか。
文字だけで判断すれば、「雌蕊」の「蕊」は、「草の心・心・心」で、草に心が三乗ある事になる。
漢字を見ると、何10億年の時間の差は無く、花の心と、人間の魂は一体のところに位置している。
私の意識が、遺伝子を通して、何10億年前の、植物と動物が分離する以前の、「雄雌、陰陽」の働きの源点まで遡って、其の記憶を、取り戻したのかも知れない。
それにしても、今朝の映像は、消去出来ない力がある、深くて重い意味を持った映像であった。
まるで、私の躰の下半身に、蜥蜴の生殖器と尻尾が住んでいて、頭の意識の内には、雌蕊を求めて空中を彷徨雄花の花粉が、エネルギーを発しているかの様である。
この事を、生前のユング氏に相談したら、何と応えてくれるだろうか。
ユング「それは 夢ですか?」
自適「いいえ 夢ではなく 起きている時に 頭の芯に浮かぶのです」
ユング「?・・・・・・」
平成14年8月3日
礒邉自適
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