2000/5/26
苦
12・5・26
インド(現在のネパールのルンビニ)に生れ、仏教の教祖になっている「釈迦牟尼佛」は、「人生は 苦である」と謂ったと伝えられている。
私は、自分の体験判断から、この「苦」を現代の言葉の「ストレス」と言い表す事が可能だと考える。
と言うのは、人間の意識はストレスが起きた時に、其の解決策として、初めて意識が創造へと向かうからである。
ノーベル賞を受けた人達にも、発見の切掛けが、夢に因るインスピレーションだと、言っている人が何人もいる。
何故、夢にインスピレーションが現れるかと言うと、その人が長い間研究したり、考えたりする事で、体全体の細胞がストレスを受け、新しい段階へ進もうとする事から、起きる現象ではないかと考えられるからである。
今日、遺伝子の世界が解明され、30億にもなる遺伝子の配列は、生命誕生から38億年間の、遺伝子のストレスに因る変化の過程の、配線図だと言われ始めた。
この理からも、60兆個の細胞の集合体である我々人間も、遺伝子の仕組みを除いては、物事を考えられなくなって来た。
人間の体を、媒体として生きているウイルスも、人間が抗生物質を使用すると、それに対応して、自らの遺伝子情報を組み替えて進化してしまうそうだ。
ウイルスは、人間の目には見えない小さな生き物である。
その小さな物でさえ、ストレスに因って変化をするのであれば、38億年前に誕生した人類の先祖の生命も、同じパターンを繰り返して来たと考えて良いだろう。
其の様に考えると、近代社会のマトリックスの中で生きる我々も、新しい価値観の世界へ転換する必要があるだろう。
私達は、最初に、言葉を使う事で文化を創造し、次に数学を発明し、化学的物質の変化を創り出して、文明を此処まで築いて来た。
この数千年の間に、世界の文化は、人類の言語と、数学により創造された、反自然的な価値観に飲み込まれてしまっている。
過去の聖者と云われている人達は、他の生物の存在の大事さと、人間の大脳意識の危さを説いている。
人間は、大脳皮質が発達し、五感を広げ、眼・耳・舌・鼻・身によるセンサー刺激を、認識パターンに組み込んで、意識を紡いで来た。
そして、その認識パターンは感情を伴いながら、芸術や哲学など、自然界に無いものを創造し、やがて人類は、自分達の組み上げた社会のカルマに溺れてしまったのである。
その事の危険を、2600年前に「釈迦」や「老子」は謂っているのだが、未だに其の理が、大事な教育の場に活かされてはいない。
逆に、教育が、旧約聖書のヘビの勧めた智慧の林檎の様な例と成って、人類を益々「エデンの園」から遠ざけてしまっている。
エデンの園は、苦の無い世界の表現でもある。
「釈迦牟尼仏」は、花一輪を手にして微笑で唱え、「イエスキリスト」は木々で戯れ遊ぶ小鳥達を、例に挙げて説いる。
現代社会を生きる子供たちが、パソコンゲームやインターネットの仮想空間に閉じ込められ、釈迦やイエスの教えから遠ざからない様に祈りたい。
「苦・ストレス」は、小さく、少ない内に片付けておかないと、取り返しが付かなくなるからである。
偉大な発明家は、小さな自分の為ではなく、大きな全体世界の為に、自分から選んでストレスの人生を歩んでいる。
釈迦、イエス、マザーテレサ、皆その様な人達だ。
今回、人間世界のストレスから、誰が抜け出すかが楽しみである。
平成12年5月26日
礒邉自適
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。