2001/10/19
鏡の法則
13・10・19
日本の神社には、何故か鏡が供えられている。
そして、エジプトの女神「イシス」の頭にも鏡が着いている。
私には、神の世界に何故、鏡が存在するのか、ようやく理由が解って来た。
私は、1984(s59)年6月4日(旧暦5月5日)に、屋久島の安房川で禊ぎを行って4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起こった。
其れは、天皇家の伝統で行われている「大嘗祭・だいじょうさい・おおにえのまつり」の儀式と、同類のものである。
天皇家で行われている「大嘗祭」は、奈良県天理市に在る「石上(いそのかみ)神宮」に古代から伝わる、物部家の儀式が元に成っている。
石上神宮は「「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」の子孫である、物部一族の先祖霊を祭る神社である。
其の、大嘗祭や新嘗祭の儀式の内容は、禊ぎを済ませて、先祖の神々・霊魂と、其の年に収穫された、新しい米を共食し、神霊の力を自分の物とするものである。
私の名字の「礒邉」も、「磯部・石部」と同じルーツなのだろう。
伊勢神宮の伊勢も、「出雲の神の子 出雲建子の命、又の名は 伊勢都彦命、又の名は櫛玉命なり。此の神昔石もて城を造りて…」と、文献に載っている。
島根県大田市に在る物部神社は、物部初代の「宇摩志遅命・うましまじのみこと」の神墓が有り、石の塚が建てられ、立石の周囲には、石が敷き詰められている。
昔の言い伝えでは、鏡の始まりは、岩鏡だとされている。
その岩は、花崗岩だとされており、霊界を写し出す鏡は、石英や雲母の入った岩が、使用されていた様である。
岩鏡は、後に、青銅が使用される様に成り、それが現在まで続いている。
では、鏡が何を意味しているかと言うと、この現代の世の中に住む、現実的な人間の心身と、肉体を有さない神霊の世界との中間に、鏡は存在し、互いの意識の疎通を図る為である。
人間にとって、神の世界は、肉の目には見えないものだ。
だから、見えない世界を見る為の、方法や道具が必要である。
その為に、用意された道具の一つが「かがみ・鏡・監」の存在である。
鏡を見ても、自分の顔が映るだけである。
それなのに、何故、必要かと言うと、霊界が見えた時に、その映像を理解し、自分との関係性を捉える為に、意識作用として、鏡はなくては成らない物なのである。
人間は、鏡に映る物が、自分であると認識出来るが、他の動物には、其れが出来ない。
人間も、鏡の存在が無ければ、宇宙の働きが、自分に係わりが有るとは、想えなかったのではないだろうか。
「神は 水鏡で来た」との言葉が有る様に、自分が向かう方向に、自分に関係した物が、有るとの認識がなければ、神が自分の対象として、存在する事が理解できないだろう。
私の体験では、「神霊の思頼」は、4311体の霊界人の姿の映像として、目の前に現れて来た。
しかし、目の前に写っている映像は、実は、自分の魂の後に、守護として憑いている物である。
だから、神社でお祓いを受ける時は、頭を下げて、頭の後ろを、祓って貰うのである。
自分の前に、沢山の神霊が向き合って居たのでは、前に進む事が出来ない。
霊にしても、後ろ向きでは、物事が見えないだろう。
霊魂は、人間の後ろに憑いて、人間と同じ方向を見て、人間の行動を、操る事が出来るのだ。
では何故、目の前に映像が写るのかと言うと、人間の視覚神経に、後頭部(ボンノクボ)からアクセスして、映像信号を送り込んで来るからである。
人間の目の働きは、光を眼球に取り込んで、電気信号として脳に送り込む。
それが、反対・逆の仕組みで動くので、人間には、映像が目の前に映っているかの様に、見えるのである。
だから、目の前に映る現象・映像は、実は、天上からのアクセスなのである。神の世界は、眼の裏側からやって来るのだ。
人間は、映画館に入って、前面の垂れ幕に映る映像を見ているが、神の情報は、人間の目から飛び出して、前の幕に、映し出されると思って良いだろう。
その事の説明とか、証の為に、鏡の役割が有るのだ。
占いの一つとして「水晶占い」が有るが、其れも、水晶に映像が写し出されているのではなく、脳が受け取った情報が、あたかも水晶に写し出されたかの様に、錯覚されているのである。
それだからと言って、水晶が無くてもそれが出来るかと言うと、水晶を使って見ている人は、水晶玉が無ければそれが出来ないであろう。
鏡は、水晶玉と同じ理屈なのである。
鏡は、あくまでも、自分に関係の有る事が、目の前に現れて見えると言う、訓練と認識の為に、用意されている物である。
私に、「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きた時に、現れた神霊の数は4311体であった。
そして、その霊団の一番前列の右端に、20年前、私が17歳の時に、49歳で亡くなった父親の姿が在った。
その父親が、私に向かって「お前に苦労をさせたのは お前の精神を鍛える為だったのだ。もう大丈夫だから この人達に体を貸せ。だけど 仕事と想うな 遊びだ 遊びだと想っておけ。」と、云うのである。
何しろ、私にとって其れは、初めての体験なので、驚きは有ったけれど、自分の父親が言う事なので、恐怖心は起きなかった。
恐怖心よりは、父親との20年振りの再会なので、懐かしさが先に立ったからであろう。
私の父親が、何故、一番前の右側に居たのかを考えてみると、私の父親だからと言うのもあるが、私の父親の生き様が、霊界でも認められたからではないだろうか。
私の父親は、生前、他人の世話ばかりしていて、体を壊し、早死にしてしまったのである。
其れで、私は、父親の役割を早くからする事に成り、多くの体験を積む事と成った。
精神的に、強く成れたのには、その事も要因の一つである。
イエス・キリストの言葉に「神の 右に座する者が 現れた時」と言うのがある。
古代社会でも、大政大臣の左側に座す左大臣の方が、右大臣よりも上座に位置している。
左に位置する者が、この世界でも、神の世界でも、上位にある様だ。
人間の体でも、右手は、行動的で攻撃的であり、左手は、受け身的で、補佐の言葉で判る様に、支える立場と考えられている。
此方側で、神の働きを支えた者は、彼の世に行った時は、クルリと反対側に回って、人間界の方を向く事に成る。
其れが、鏡の働きの意味する処だろう。
此方側で、人間的に成功していなくても、神の世界に帰れば、成功者と成れるのである。
心身の禊ぎ払いをし、精進を積み重ねる時、自分の全身全魂が、神の鏡の役目を果たす事になり、神の祐(たすけ)の言葉を、受け取れる者と成れるのだろう。
予言者とは、鏡の法則の達人の意味なのかも知れない。
平成13年10月19日
礒邉自適
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