2001/10/17
救世主(其の四)
13・10・17
日本語の「すくう」の言葉の意味は、前回も述べた様に「手を 下に差し入れて 掬う」の意味で、溺れている人、困窮している人を助ける事が、その行動にある。今度は、「助ける」とはどう言う意味なのか考えて見た。
「たすける」の、本語に当てる漢字は、漢語林では22字も有るが、「助」の漢字の字義を見ると、音読みは「ジョ」で字の成り立ちは「力+且」で「且(ヨシ)」は、積み重ねるの意味で、力を上に重ねてたすけるの意味とある。
たすけるの「ける」は、動詞で、「上げる」などと同じであるから「たす」だけが、物(現象)を表現する言葉である。「たす」は足す、加えるの意味で不足をおぎなう「supply・サプライ」の意味だと字典には載っている。
助けるとは、何かの不足が生じて居る人に対して、力を重ね、積み上げて足してあげる事の意味らしい。これは、仏教で使う「布施・ふせ」の意味と通じるものがある。
辞典には、「すくいぬし(救主)」の所に、1・助け人「hel-perヘルパー」、救世主「thesavi0rザ・セイヴィア」とも載っている。
私は、これ等の言葉から考えて見ると、体験豊かな先達が、後から神に近付く者達に対して、手助けをする姿が見えて来る。自分が、積んで来た体験からの知恵を、後から登る者に対しての、踏み台として与えて遣るのである。
私達の、文化や文明も、過去の人達の業績の上に成り立っている。科学や、技術の世界もそうであるが、釈迦や老子やイエス達が見極めた宇宙の真理の情報も、私達が道を極める為の踏み台と成っているのである。
私達は、過去の人達が努力をして、「且・ヨシ)を積み上げてくれた御陰様で、能力が向上しているのである。現代社会に生きる我々も、次の時代の為に、何等かの業績を足さなければならないだろう。老子や、釈迦仏陀や、イエスキリストの業績の上に、何を足せるか、私達の努力は今からが勝負である。
「たすける」の漢字は、介・右・左・丞・佐・佑・助・扶・侑・相・祐・将・將・幇・弼・援・資・輔・賛・翼・贊・眦と、漢語林に載っている。
私が辞典を見て、誰も理解出来ないのではと、想えるのが「眦・ヒ・まなじり・たすける」の漢字である。
「毘」は、毘沙門天や毘廬遮那仏に使用されている文字だが、文字の成り立ちは、「田+比」田は通気口の象形。音符の比は頻に通じ、しわをよせるの意味。しわのある通気口の形をした人体の「へそ」の意味を表す。また比に通じたすけるの意味を表すと載っている。
これだけでは、どうして臍が通気口で、人を助けるのか理解出来ないだろう。処が、私には、この事が良く理解出来るのである。私は、屋久島で修業をして悟ったら、臍が通気口と成り、全地球のエネルギー体の情報が出入りする様に成ったのである。俗に言う処の、丹田が開いたのである。
ですから、初対面の人に出会うと、その人の先祖代々の「カルマ(先祖の因縁)」が、全て、私の臍を通して丹田に吸い込まれるのである。だから、私は、初対面でカルマの強い人に会うと、丹田が膨張して痛むので、直ぐ焼酎の温割を飲んで、腹を温め散らす様にしている。
特に、カルマ・業が強い人に会うと、一週間程それが続いたりする事が有る。古代の人々は、その事が理解されていたので「毘」の文字を創ったのであろう。
現代の人々は、他人に会ったり、他人様の家を訪れる時に、自分の心身の禊をしてから出発する人は少ない。全どの人が、自分が他人のカルマを吸って助ける事をしていないので、自分が他人にカルマを押し着けている事が分からないのだろう。
天皇が、民に会う時に、御簾の中に居て、直接に気が通じる事を避けているのも、この理が理由なのであろうと想われる。
「資」のたすけるは、金品で助ける事で、「祐」は神の助けであり「扶」は男手の助である。
「相」のたすけるは、物事をくわしく見るの意味で、宰相に使用されている。宰相とは、君主を助け、政治を統べる官。大臣の事である。国の事情を能く、詳しく見る事で、君主を助けるのである。現代の世の中は、「相」をしっかりと出来る人が居なく成って来ている。
全体的に、現代人は自分の利己心を満足さす事に精一杯で、他人を助ける事や、社会を救う余裕が無い様で残念である。
人間は、此の世に産れて来た時、お母さんと繋がっていた「へそ」は、臍(セイ)の漢字を使用している。斉は、ととのうの意味だが、日本では「ものいみ」の意味に使っている。斉(セイ)から斎(サイ)と変化し、斎王や斎宮に使用される。
人間は、もっと自分の「へそ」を大事にし、禊をして、世の助人と成らなければならないのではないだろうか。
平成13年10月17日
礒邉自適
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