以前、右翼とか左翼という言葉を安易に用いることについて批判的な意見を書いたことがある。今回はそれを一歩推し進めて、これらの用語を「
戦略的な見地から」利用可能な形で暫定的に定義しておこうと思う。
ある種の言説には
「権力」や「国家」と発話者自身を同一視する傾向があり、そうした
一体感を感じ、また、それに基づいて発せられる(注)。このようにして発せられていると見なされる言説を私は「
右翼的言説」と呼ぶことにする。(右翼的言説の暫定的定義)
***************
(注)上の文における「権力」とは、多くの場合、「国家権力」を指す。但し、それは「現実の国家権力」を指す場合と、「あるべき国家権力」を指す場合があり、これによって右翼的言説も「体制翼賛型」と「政権非難型」に分けることができる。(ちなみに、アメリカに対するスタンスについても「防衛的ナショナリズムの感情に基づいた反米主義者」と「とにかく現状で最大の権力との一体感を重視する親米主義者」に大きく分かれるように見える。)
さて、上の文やこの注における「国家」とは、たいていの場合、多数の同質的な人間によって構成されている統一的な共同体として想定されているようである。つまり、近代における「国民国家」「民族国家」の観念を無批判的に受け入れたものであることが多い。
こうしたものへの批判が80〜90年代に様々に出された国民国家批判を知っている場合もしばしばあるが、その場合でも彼らの論旨には影響を与えていない場合がある。しかし、その場合でも、例えばB.アンダーソンの著書に言及するだけで、都合の悪い部分を流しているように見える。
以下、かなり難読な私見を述べれば、次のようになる。
すなわち、上記のような意味での統一的な共同体は「現実的な指示対象を持たない(空虚な)観念」にすぎない。「国家権力」なるものも、「ある種の公共的な(明示的ないし暗黙の)了解の体系の現前化されたものとしての法体系に対する正当性の付与(より正確には反正当化の欠如)」と「それらの運用(立法、行政、司法を含む)をつかさどる組織としての政府に対する支配の正当性の付与(より正確には反正当化の欠如)」とによって支えられたものとしてのみ、現実的に存在すると言うことができるものに過ぎず、「国家」なる「存在しない実体」が持つ「権力」ではない。
つまり、それは共通了解によって正当化された政府によって法的に執行される実力を背景にした心理的および物理的な強制力を指しているにすぎない。(なお、「領域内の人々」が存在することと、「彼らによる法の承認および準拠」とは循環的な生成関係をなしている。)
**************
右翼的言説においては、
論理的推論や
区別よりも感情や一体感が強調される。
何事かについての記述も、ほとんど
分析によるものではなく、
精神論的なものでしかない。
つまり、
事実は軽視され、何らかの意味での
客観性の追及も見られない。「事実」を――以下で再度採り上げるが――「批判的」に吟味するとか、徹底的に考究するということはなされない。
自分にとって都合のよいように「事実」を切り貼りすることはあるが、せいぜいその目的に適う範囲でしか「事実」は使われない。
右翼的言説には
「批判」もない。批判には、正しいものと誤ったもの、良いものと悪いものを分けることがその基礎にある。右翼的言説においては、そうした区別は行われず、端的に言ってしまえば、
自分の気に入るかどうかを基準として、敵対するものを全体としてひっくるめて中傷・罵倒することを(発話者たちは)批判と呼んでいるようである。
しかし、彼らがしていることは、私の用語法によれば批判ではなく「非難」にすぎない。批判と分析は不可分なのに、既に述べたように、批判の土台にあるはずのものである
分析がないからである。
以上、
「右翼的言説」には、論理的推論、分析、事実(認識)、客観性、批判といった一連のものが欠如していることについて述べた。
では、「右翼的言説」には何があるのか?そこでは、あらゆるものは
「発話者がどう思うか、どう感じるか(発話者の心象)」に還元される。
一般に社会問題は
「倫理的または道徳的な問題」として解釈される。外交問題もかなりの程度「誇り」の問題として捉えられる。経済でさえも「誇り」と結び付けて語られる。
右翼的言説においては、客観的な事実認識もなく、事実に基づく論理的推論も分析もなく、批判的な思考もないままに、その人の心象こそが「正しい」ものであると主張されるわけである。
その上、特徴的なのは、彼らは「権力的なもの」「支配的なもの」との一体感を感じようとするために、様々な意味で
不利な立場にある人間(例えば、国内外を問わない貧困層)
に対する配慮がないということ、つまり、不利な立場の人間が彼らの視野に入ることも滅多に見られないということである(注2)。
***************
(注2)しかし、右翼的言説の発話者はそれほど社会的に認められた社会層の人間ではない――とりわけ、教育水準は高くない――ことも多いように見えるのだが…。また、知識階層の場合、知的能力があまり人に認められなかった場合に、右翼的になる傾向があるように見える。つまり、論理的・批判的な思考で打ち負かされたので、感情に頼る議論に走る、というパターンである。まぁ、これらは余談であるが。
また、弱者への配慮の欠如は、社会をシステムとして、つまり様々なものが関連しあっているものとしてみることができていないということとも関連している。実際、社会システムを認識することは相応の知的な――努力と達成の両面での――水準を要求するのだが、そうしたことは彼らには不可能であるらしい。
***************
以上が右翼的言説に関する、現状における暫定的な私見である。
今後、研究を進めることによって、これらの見解を更新していこうと考えている。(なお、「左翼的言説」は以上の議論をほぼ「ひっくり返す」ことで得られる。)

0