今日は
先日のエントリーに続いて、どうすれば「硬い改憲派」の信仰のありようを変えられるか、また、「中間的な浮動層」を武力万能主義に染まらないようにするにはどうしたらいいか、どのような言説が必要かという問題意識と関わることについて、手短に書いてみる。
まず、既に前回までに指摘していたように、9条改憲派(武力行使容認の方向に変えることを望む人々)の発想は、基本的に、
「もし攻撃を受けたら」というところ(攻撃を受けた場合の想定)から出発した上で、「武力さえあればなんとかなる(武力がなければどうすることもできない)」で安心(あるいは勝手に納得)し、そこで思考停止、というパターンが多い(★注1)。
逆に言えば、攻撃を受ける前のプロセスについての言及がない(★注2)。攻撃をされた場合の想定をして、そこで終わり、ということだ。
これに対して私が投げかける問いは
「武力だけで問題解決できるのか?」である。
この問いを
真正面から問われれば、これにYESと答える者はまず、いないはずである。「武力万能主義」という発想をしていると言われている者でさえ、それだけで良いはずがないと考えているはずだ。
しかし、
9条改憲派たちには、「攻撃を受けた場合」以外の場面を想定した上で、それに現実的に対処するための理論枠(議論の蓄積)はほとんどない。だから、彼らが自力では出て来ることは難しい。9条改憲派同志が集まって議論していても、以下の(★注2)に出てくるような印象論に終始するだけだろう。
これを
護憲派(ないし、平和主義者)が公の場で、繰り返し(←ポイント)連呼・合唱していけば、次第に9条改憲派は彼らのフィールド(既に攻撃された場面)から出てくる必要が生じるのではないか?
そうなれば、現実の世界情勢との接点が生じるために、地に足の着いた(相対的にpositivな)議論が出来るようになると思われる。そして、少なくとも現状の国際情勢を観察する限りでは、護憲派に分があると私は考えている(★注3)。
言いたいことを再度一言で言うと、
改憲派を相手のフィールド(狭い状況設定)から誘い出すための質問として「武力だけで問題解決できるのか?」を有効活用できないだろうか?
ということです。
(★注1)「武力があればなんとかなる」から「武力がなければどうすることもできない」の間には距離があるが、改憲派は憲法9条について議論するとき、概ねこの間のどこかの心理状態にいる。
本人たちはこのことを意識していないことが多いだろうし、指摘すれば反発するだろう。これは精神分析における「抵抗」と同じような現象である。
(★注2)仮に言及があってもほとんどなく、主にテレビの報道によって形成された印象論に終始している。中国は一党独裁だとか、金正日は独裁者だから話し合いなど無駄だとか、イラクのフセインが国内で虐殺していたから話し合いなど無駄だった、だから、武力によって従わせる(牽制する)しかない、というのがその典型だろう。
もし、彼らの言い分が正しいならば、アメリカと北朝鮮が――日本を半ば無視して――直接協議するようなことはありえないはずである。また、イラン・イラク戦争も終わることはなかっただろう。
国内政治で強権的であることと外交上の交渉が可能でないことについての因果的な分析は一切ない(つまり、印象論にすぎない)。もちろん、そんな分析が正しいものとして成り立つわけがないのだが。上で、下線を付した「だから」を説明する理論が彼らにはないし、説明できるわけがないというのが現時点での私の考えである。改憲派諸氏は説明できるものならやってみるがいい。
(★注3)「硬い護憲派」は、国際情勢や世界各地でのNPOなどの動きを注視し、それらの活動のありようを自説の根拠として使えるよう、日頃から理論武装しておくべきであろう。こうした情報をウェブ上に集積しておけるセンターなどがあれば、役立つかも知れない。

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