2010/2/4

講読 第5課  

第5課 アル・アンダルス

 イスラム教徒の征服はほとんど抵抗を受けなかった。716年にはすでに、イベリア半島のほとんどの部分が南から来た侵入者に従っていた。これらの人々は彼らの新しい領土をアル・アンダルスと呼び、コルドバに彼らの政権の本拠地を設立した。もっと後になって、ここにウマイヤ朝の一人の王子が亡命し、バグダッドのアッバース朝カリフ政権に対して独立アミール政権を創設する。

 征服者たちの定着と支配は、彼ら自身の寛容な態度、ヒスパノ西ゴート貴族たちの日和見主義、教会の無気力、一般大衆の無関心によって容易になった。勝者と敗者はともに住み、婚姻によって融合した。後者が二つのグループに分かれるのに時間はかからなかった。ムラディ、イスラムへの改宗者と、モサラベ、キリスト教徒として残った人々である。勝者たちの立派さ、特別税を免れたいという願望、そして社会的な出世への熱意が、改宗を促進した。10世紀、アル・アンダルスのイスラム化は既成事実となった。

 パックス・イスラミカ(イスラムの平和)のもとで、あるアンダルスは過ぎ去った時代の繁栄への回帰を経験する。イスラム貴族政治の確立と製造業の発達のおかげで都市は再び栄えた。商業は息を吹き返し、新しい栽培植物とオリエントで発達した農耕技術の導入によって、農業は緑の革命を経験する。しかし、アル・アンダルスが世界的な名声を勝ち取ることになるのは、文化の分野であった。旧世界の先行する諸文明のはじめての集大成であるイスラム文明は、アル・アンダルスの諸都市、とくにコルドバにおいて、肥沃な土壌に出会った。その宮廷は、各地の芸術家や学者たちを歓待した。

 しかしながら、経済的なもの、文化的なものにおける成功は、アル・アンダルスに他の分野で成功を収めることを保障するものではなかった。当初から、国の最高責任者のためのしっかりと確立された王位継承システムが欠如していたことが、政治的生活を絶え間ない混乱で満たした。他方で、共通する信仰の告白も、調停不可能な党派に分裂するほどに不均質な住民たちの個別的利害を超える国家的アイデンティティの確立を達成する助けにはならなかった。ムラービト朝やムワッヒド朝のアフリカ人による(イスラム)強化も、信仰と、細分化されたタリファの群小王国を回復(復興)することはできなかった。13世紀中葉、アル・アンダルスは、グラナダのナザレ王国に縮小し、それが洗練された文化の最後のきらめきを放ちながら250年間存続することになる。
0



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”

[PR] 仏像 販売