最近、身辺に不幸が多く、諸行無常が身にしみる。
ららさんのブログも仏教についての連載で、秋風が心の中で遠い潮騒のように吹く。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂滅と唱えてみる。
忙しさは一種の麻薬の様で表層的に日々が過ぎてゆく。
十月の初旬シニアクラブで知多へ行った。 生憎の雨で、知多道路を美浜で出て最初に野間大坊に行った頃にはまだ雨足も強かった。
野間大坊は天武天皇の頃、役行者によって建てられ、聖武天皇の頃行基によって中興され、其の後弘法大師が諸国行脚の途中、此処に留まって庶民の幸福を願って一千座の護摩を焚いたと伝えられる。白河天皇の勅願寺、頼朝は父義朝の墓のある野間大坊の七堂伽藍を再建し、其の時の大門や鎌倉幕府5代将軍が寄進した梵鐘が残っている。
本堂に通され其処で水野隆圓師のご講話を聴いた。代々世襲で徳川家康の従兄弟の水野長圓師から14代目で、インド占星術の霊能者としても知られ、人相見で有名だと聴いていたが実に洒脱な人で「あんた103歳まで生きる。海草のぬるぬる好きかね」「好きです」「ほんなら、110歳まで生きる」「そんな生きたら、友達も居なくなるし、つまらないから厭です」「そりゃ、えらいこった。それでも人間は生きなあかん。香典も貰えんし、生前葬やっても良いけど、それより、毎月パーテイ開いたら楽しみながらお金も入る」政治家のパーティのような事を言っている。
「旦那さんあんたに惚れ込んで結婚したでしょ」Yさんは「そうでもありません」「旦那さん鼻高いかね」「普通ですけど」「良かったね、それで安泰や」
そのうちに指圧や触診の話になってきた。
「あんた、一寸見たげましょう。此処はどうかね、此処はどうかね、と言って今度は脇の下をなでるとI氏は急に笑い出した。「こそばいですよ!」「あんたはまだ元気で敏感や、子供の1人や2人は作れるよ」
笑いながら健康、薬草、民間療法が少し解った。
「源義朝公ご最後のご絵解きをします」と隆圓師は長い指示棒を持って威儀を正して正面の義朝公最後の絵の前に立って、絵を指しながら立て板に水のように説明された。
「さて、この絵は当国、ご藩祖源敬(徳川義直)公のご寄付、絵師は狩野探幽18歳の作、表具は権現様(徳川家康)様より源敬公へお譲りの織物、中縁はご装束の切れにて致してござる。
そもそも左馬頭源義朝公は京都六波羅の合戦にご敗北なされ、それより美濃の国青墓の宿まで落ちさせ給う。」と続いて行くが、大略を書くと。
青墓宿の長者大炊は頼朝の妾の親なので、柴船を頼み主従4人柴に隠れて脱出し、家来の鎌田の舅の野間の庄司長田忠致の所へ到着、山海の珍味で歓迎するが、後に長田が逆心を起こし最初に婿の鎌田を殺し、それを知った鎌田の妻(長田の娘)が鎌田の短刀で胸を突いて死ぬ。其の後義朝を湯殿へ誘い、浴衣がなく、いくら呼んでも出てこないので金王丸が取りに行った隙に三人で義朝に襲いかかり首を取った。
三人が出て行くところへ金王丸(18歳)が戻ってきて、其の惨状、義朝の首がないのを見て、裸馬に飛び乗って後を追う、柴船を漕いで来た長者大炊の弟鷲栖玄光(63歳)は敵に背を見せずと逆馬に乗って追いかける。
長田父子が清盛に首を奉り官禄を願った。清盛は喜んだが、重盛は「重代相恩の主君を討った不義は許せない」と壱岐守という号だけを与えて、恩賞は与えなかった。
平家が滅び、頼朝の威勢が強くなり、長田親子は重刑を願い出たが、頼朝は「まだ天下統一できていないから、天下統一のために軍功があれば美濃尾張を与えようと言ったので、長田は喜んで合戦に抜群の働きをした。
頼朝は父の菩提の為に七堂伽藍を再建した。
長田親子は御廟の前で板貼り付けになった。長田は末期に辞世を残した。
「ながらえて命ばかりは壱岐守 身の終わり(美濃尾張)をば今ぞたまわる」
源義朝公ご最後のご絵解はそれだけで人の道を説く、良い説教だ。
貪瞋癡とからかい半分の合い言葉のように言っていた時があった。それにしても貪(むさぼり)瞋(怒り)癡(おろかさ)煩悩のすざましさと愚かさ。勧善懲悪の語りを聴いて育った私達の世代には懐かしい。
雨の降るなか、バスに乗って豊浜峠のまるは食堂旅館へむかった。以前よくドライブをしたが食堂はまるはと、まる津が在ってどちらかで食事をしていたが魚がとてもおいしかった。 1汁、5品で刺身も新鮮でエビフライも
美味しかった。其の後魚広場で魚や海産物、など買ったが暮れや正月とは違い、店も少なく、活気も落ちる。
えびせんべいの里にもより買い物ツアーのようになった。






1