「明日朝早く、名古屋テレビが収録に来るので大変です」もぎたてのトマトやキュウリを手にミセス岡田が言った。
何時も新鮮な野菜を沢山届けてくれる。「市の広報に写真入りで出ていたでしょう。良い写真だったわ」「お父さんは太鼓を叩いて70年だから、掃除もしなくちゃあ、忙しい!忙しい」と彼女は帰って行った。
翌日午後4時公民館へ行ってみると太鼓が並べられ、子供達も祭りのハッピの衣装を着て集まっていた。 ミセス岡田は「朝早くご飯を食べるとこから畑に出たり色々摂ってくれたけど、昨日1日中掃除をして腰が痛くて、痛くて」と言ったが生き生きとしていて60年間夫を支えて働いてきた女性の溌剌とした心意気を感じた。
「今の子供は塾通いだ勉強だと忙しくて、全曲叩ける者はいなくなった」と岡田氏は言った。 2歳年下で一緒に太鼓を叩き続けた石川氏が御神酒徳利みたいに何時も一緒だが今日は先輩の為に子供達を統率したり、指揮したり、大きなアクションでうごきまわっていて友情が溢れている。
収録も無事終わり、テレビも見た。 なかなかほほ笑ましい息の合った楽しい録画だった。その数日後「私もブログに書きたいから伺って良いですか」「どうぞ」と言う事でお宅にうかがった。
岡田家の先祖は享保年間(1730年頃)知多郡岡田から日進の三本木に居を構え、渡辺半蔵の差配になり、山をまかせられた。 渡辺家は大江山の酒呑童子を退治した源頼光の四天皇の一人渡辺の綱の子孫だと言われ尾張徳川家の重臣を代々勤めた。
神明社には渡辺半蔵守綱がまつられている。
岡田家の祖先が勤めたのは渡辺半蔵綱保の時だと思う。 岡田氏の祖先の方が亡くなる時「下に−、したにぃ」と言って息をひきとったと岡田氏はいった。お殿様が日進に来られたとき先導をしていたのだろう。 岡田氏は其の先祖から9代目にあたる。
岡田氏が名大の守衛に勤めいてヒョンな因縁、 野並に住んでいた時交通のアクセスが悪く車で通勤の送り迎えをしていたが守衛で岡田氏に夫の研究室につないで貰っていたのだ。 私達夫婦が日進に居を構えて、出合った時「先生はあまり知らないですが奥さんはよく知っています」と言われて吃驚した。縁というものは不思議なものだ。
その頃の大学は先生も学生も生き生きしていて、活発なゼミの後、皆で酒を飲んでへべれけになって学生に御神輿のように担がれて下りてきたこともある。今なら教授としての資格を云々されるかもしれないが、結構胸襟を開き効果的だったとも思う。
岡田氏の子供の頃
「小さい頃の遊びはメンコ、竹馬、運動会、祭り遊び
10人兄弟姉妹の4番目だったが3人の兄が夭折して、事実上長男の立場になり、丈夫に育たなくてはと牛乳を飲まされたりしてやんちゃで元気に育った。
メンコをしたり、竹馬を作ってドンドン高くして走り回ったり、色々な遊びをしたが、その中でも人気のあったのが運動会と祭り遊びだった。
運動会
中でも圧巻は近所の子供を皆集めて運動会遊び、その頃学校の運動会でも賞品が出たので賞品を出さないとと家のなかをさがしたが、干し芋(芋を蒸して干したもの)位しかない、3等賞まで出さねばならないと探していると良い物をみつけた。
富山の薬売りの箱のなかには甘いのから苦いのまで色々ある。「おーい今日は景品もいっぱい有るでよ、頑張ってちょう」皆盛り上がってワアワー走りまくった。
勝った者には干し芋や甘い薬、どん尻のものには百草丸やダラスケ、熊の胃を飲ませる。
其の後がたいへんだった。
「今日運動会やったやつ出てこい。お前ら、うちの子に何飲ました。腹が痛くなって転げまわっとる。 みんな出てきて並べ、処刑してやる!」ひきつった顔して並んだ子供達に空気銃をかまえた。パーンという乾いた音がして「もう死んだか」と周りを見ると誰も死んでいない。弾は上の方の壁にあたっていた。
薬草の栽培
その頃医院は赤池と本郷にあったが、自転車しか無かったので末期になるまで医師にかかることはなかったそうで、富山の置き薬と薬草を煎じてのんだ。本で調べて栽培した。吹き出物にはツワブキの葉の汁を塗り、柿の葉の茶は高血圧になど。
「サフランの花とスルメと氷砂糖を煮ると風邪薬になる」「貴方のお父さんがサフランなんてハイカラだったのね」サフランはスペインでパエリアを食べて以来やみつきになってサフランの雌しべの乾燥させたのをスペインで買って帰ったが随分高価だった。 自分で栽培してみようとサフランの球根を買って2年位栽培してパエリアを良く作った。
「お父さんは薬草の勉強をしていろんな薬草を作っていた。日進の東小学校に鈴木克明という初代校長の銅像が立っているが良く勉強が出来るので鈴木先生から上の学校へ進むように勧められたが、進学すれば農業を捨てることになり、家をつぶすはめになるからと断念した」
「貴方が猿投農林に進学しなかったのも、お父さんと同じ理由なのね」
「勉強は意思さえあれば出来る。人の道も周りの人から教えられる。 ”ハトに三枝の礼あり、烏に百日の孝あり”とか、鳩は先輩に対して三枝下に止まり、烏は親に百日の間、餌を口に運ぶ。 鳥でさえ恩義に報いるのにお前達は人間だろうと言われた」
「貴方は墨痕鮮やかにと言うか、書道家も顔負けの字を書かれるけど、お父さんに習ったの?」「いや、習ったと言うより、父親譲りの此の手だと思う。 父は本当に立派な人だった。 精進、精進、又精進。どんな時も暗い顔をしないで進んでいった。
昭和11年に10年間リューマチを病んで寝ていたお祖母さんが亡くなった。 藁を積んで固めてベットのようにしてその上に布団を敷いて寝ておられたが、お祖父さんは何時も優しく、怒った顔を見たことはなかった」
その頃、幼い孫に飾り馬を作ってくれた。 竹で馬の骨組みを作り周りに藁を巻いて肉着けをして、たてがみも尻尾もつけて、引き綱は三つ編みで祝い結びにして着けてくれた。
お祭り遊び
「おじいさんの作ってくれた飾り馬を担いで山の上の半僧坊に行ってみんなでお祭りあそびをした。 一寸大きい子供達が手綱を持って引くと小さい子供は尻尾の方に付いた縄をそれぞれ引いて、 おっさい おっさい おっさい おっさいと合唱しながら馬を追う。 本当の馬を扱っているように真剣だ」
神社の祭りに各部落から奉納の飾り馬を出す。鞍の上に乗せる飾りと山車はそれぞれ趣向を競い華やかで美しい。 みんながエキサイトする祭りのイベントだ。
おっさい おっさい おっさい 幼い子供達は祭り遊びが大好きで、汗ビッショリになって帰ってくる。
金魚の串焼き
井戸水を汲んで毎日風呂を沸かすのは大変な労力なので、近所の三軒が回り持ちで風呂を沸かし、3日の中の2日は貰い湯をするようにしていた」
金魚の養殖を副業にしているおじさんの家へ行くと、コンロで金魚を焼いている。
金魚を古くなった自転車の車輪のスポークを串にして串焼きにして醤油をつけて「食え」と差し出す。 嫌がって逃げて帰る子もあるが、思い切って食べてみると苦い。
「苦いなあ!」と言うと「良薬は口に苦しと言うやろが、お前は良い子じゃ。ほんなら進め」と風呂に入れてもらえる。風呂を仕切る閻魔大王のようだ。
「金魚を食べるなんて一寸考えられないわ」「70年以上昔の川はそれは綺麗な水で弥富のように金魚の養殖に適していたので3000匹以上飼って副業にしとられたが金魚も死ぬ事があるから串焼きにしたのだろう」「そう言えば、金魚も魚ね」
風呂は五右衛門風呂で上手く底板を踏み込まないと、底板は浮いて直接焼けた鉄の上に足を乗せてヒリヒリ火傷しそうになる。 釜ゆでの刑を受けた石川五右衛門から五右衛門風呂の名が着いたのだろう。
五右衛門の辞世の句 石川や 浜の真砂は尽きるとも
世に盗人の 種は尽きまじ
夏はたらいやバケツに水を入れて置けば自然に熱くなり省エネになる。風呂の燃料は藁束だった。風呂から出ると「親鸞聖人や道元上人の話を聞け」と他力本願、自力本願の話をして、「親鸞聖人は妻帯して柔和に暮らせといっとる。お互いにギブアンドテイクで良いことだ」というような話をしてくれるが、分からないのでいい加減に聞いていると「しっかり聞け」と怒られる。
煙草葉の栽培、乾燥場
昭和8年岡田家では米、麦、野菜などの生産からさらに煙草の乾燥場を建てて本格的に煙草栽培にのりだした。 乾燥場(二階建て)は中の温度が逃げないように厚く土で塗り固めて仕上げる。
1反に1000本植えたので、朝4時ごろから、1本から1枚かいても1000枚になる。
縄で葉柄を結わえて連ね、のれんのように張り、2昼夜半石炭を焚いて乾燥させる。蒼い葉は黄色に変わり最終は茶色になる。
火を焚き続けなければならないので目を離せない。 8人で担当、夕方から午後12時まで、12時から朝まで、朝から夕方までと交代で火の番をした。
昭和11年に祖母が亡くなり、昭和13年母が妹を出産後の過労と食あたりで、2歳8ヶ月の弟と4ヶ月の妹を残して亡くなり、祖父も逝去した。
生後4ヶ月の妹は親戚の養女になり、岡田家は火が消えたように淋しくなった「お父さんは本当に偉い人だった。朝4時に起きて、家族のご飯を炊き、仕事に出かけて、母が生きていた時と変わらないようにしてくれた。 自分はその頃から積極的にお父さんの仕事を手伝い、農業を学んでいった」と岡田氏は言い、敬虔な表情になる。
聞いていると温和で優しく家族を覆い守護神のように強い人と言うイメージが浮かぶ。
昭和12年7月7日日中戦争が始まり、昭和15年にはインドシナへ進駐し16年の12月太平洋戦争開戦に進むが、煙草の乾燥の石炭もコークスに変わり、木を使うようになれば労動は多くなり、しかも、若者は招集されて人手は無く、とても続けてゆけないので15年に煙草の栽培を中止した。
15年(1940)ごろになると物資は不足し、自警団も消防も老人と子供で、これから起こる厭戦気分を払拭するためか、皇紀2600年(明治6年1月1日神武天皇即位を紀元に施行)のイベントが行われ、国威の発揚、国民の愛国心の高揚、結束を目的としたのだろう。
皇紀2600年の奉祝曲を世界の国々に委嘱、ドイツはナチスの宣伝大臣ヨーゼス・ゲッペルスがリヒャルト・シュトラウスに委嘱して作られ採用されたが、シュトラウスの最も想像力不足の作品と言われた。 その時、ベンジャミン・プリトゥンが依頼に応じ作曲した曲は天皇に対する意図的な侮辱であると、しりどけられたが、鎮魂交響曲として名曲として残っている。 2600年の頌歌も作られ、歌われた。
早大教授津田左右吉は「記紀」(古事記、日本書紀)の神話は史実ではなく皇国史観を否定した為に右翼によって攻撃され、著書4冊が発売禁止になり、昭和15年4月早大教授を辞任した。
その前に滝川事件(京大)天皇機関説(東大、美濃部博士)など学問の自由と大学自治に対して弾圧がきびしく、真理を探究する大学の面目は無くなった。
大学のみならず総ての人々に思想の弾圧があった。
「2600年の奉祝イベントあったの?」「皇紀2600年の歌を歌いながら提灯行列があった。暗い道を紅白の提灯の灯が夢のように浮かんでくる」
戦時下の農家
母も祖父も亡くなった後、父と子供5人の生活を父はガッチリと抱えてくれた。
祖父と父がやっていた農業を今は父と13歳の彼が続けた。
「家の働き手は父と私と11歳の妹だった」と岡田氏は言った。15歳以上の若者、壮年者はいなかった。少年兵に志願して、少年たちも家を去り、大人は赤紙で招集され、米、穀物は現在の半分も収穫できない。 1反の米の収量は5.6俵で供出は厳しく、1年間の家族の食い扶持を残して全部供出する。小麦は1年分のうどん券に変え余分は供出する。 米が採れない家はヒエ、アワ、キビ、雑穀で供出する。供出の米の値段は1俵5.6円と非常に安く、大変だった。
当時の生活は ”自給自足” ”物々交換”だった。
岡田家では裸麦を3日分蒸し、その⅓を米と一緒に炊く。その割合は米6に対して裸麦4だと言う。米が採れない家は米2に麦8、甘藷と南京を主食にする家もあり、大根飯、甘藷飯を炊くお家も有る。
「大豆などは取れるでしょうが、魚など動物性蛋白質はどうしたの」 「下一色から魚屋さんが来た。米1升で鰯20匹と鯖1本、とか大きいエイ1匹とイカ数はい等交換する。秋には毎日さんまばかり食べる。米は貴重なもので自分の飯米を減らして麦の比率を高めてもいざと言う時の為に残した。「川に魚がいるでしょう」 「朝から晩まで働き続けで魚釣りをしている暇はなく、魚釣りは暇人がやるものだ」厳しい労働と弟妹達への責任、父から自然に受け継いだ生き方はしっかりと身について彼を逞しく心身共に成長させていった。
翌昭和16年12月(1941年)太平洋戦線突入。 17年4月、B25 爆撃機による名古屋初空襲。1944年 B29爆撃機90機による三菱重工爆撃。 1945年に入ると無差別攻撃になった。
三本木でもグラマン戦闘機が来襲機銃掃射をしたと岡田氏はいう。 警報がなると防空壕に飛び込み、防空訓練もした。
今、商大になっている山林の中に日本の双発戦闘機が落ち、ガソリンに引火し炎上した。皆、集まって集会所で通夜をし、お葬式をし、骨箱におさめ遺族に渡した。
八面六臂の働きをすると言われた日本の双発爆撃機屠龍だったのだろうか。
前編終わり




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