午後5時から始めたガーデンパーティは薄暮に入り、庭園灯やスポットライトもついてあちこちのテーブルで賑やかに会話が弾む。
持ち込みもあって料理もバラエティにとみ食べ飲み少し酔って舌も滑らかになる。
「いつかテレビでフェミニズムで有名な女性が出ていたの。私には何となくピンと来ない。
勿論、フェミニズム運動が女性の権利を高め、働く婦人のための育児、保育のシステムの向上、介護保険の導入など安心して働ける社会の構築に貢献した事は否めないと思うわ。
でも専業主婦を個として独立しないで、夫の傘の元で従属的な生き方をしているように考えているのはどうかと思う。
夫は学者で研究、学問以外興味が無いし、家事、育児、経済、社交総て主婦の仕事、相談しても当てに出来ず、結局自分の判断で決済しなければならないわ、この時、個を切実に感じるわ。」
「貴方は幸福よ。ご主人も任せていらしゃっるのだから。
どんな時も人に任せて、負んぶして逃げていて、しかも自分は戸主だと文句を言い、とてもうるさい人もいるのよ」彼女は高校の先生を定年退職して同人誌の編集長をしている。
「耳がいたいなあ」とI氏。I氏は哲学者であり心理学者、理路整然と本質をついた発言は見事で私は全面的に信頼している。
「男の苦労は人間を作る、女の苦労は女を駄目にすると聞いた事があるけれどI夫人の場合は女の苦労は人間を作るね」
I氏が脳梗塞で倒れてからの彼女の変貌ぶりは凄く、ナイーブで静かな人だと思っていた彼女が意志的で積極的、活動的な女性に変わり、大学教授としての夫を立派に支えている。
「男の人って弱いですね、男に余分の苦労はさせない方が良い。女の苦労はバネになると思います」と彼女は言った。
ボーボワールは「女は女として生まれるのではない、女になるのだ」と言っているが、私は女の子らしく等と言われた事はないからジェンダとかマイナスの性など考えられないのかもしれない。
竹の枝にさち子さんが書いて下げてくれた水茎のあと麗しい百人一首の歌の中に彼女の歌が一首
暖かき友情で結ばれし我が友よ 今宵七夕共にかたらん
ニセアカシアの大木の下のテーブルでは男性三人
Y氏が招集されていたニコバル島の話をしていた。
「スマトラ沖地震で有名になったアンダマン・ニコバル諸島ね」
「土人が少し住んでいるだけで、無人島みたいだったのに津波で流されたのを見て、大勢住んでいるのに驚いた」
1943年10月横須賀を出て、台湾によりニコバル島に41日目に着いた。
補給船で500人ぐらいすしずめで石炭と一緒に寝たり考えるだけでも厭になると言った。
現地人は男は褌一つ女は腰布だけで裸足、足の裏が固くなって刀で削っていた。家はきのこの様な形の円形で2.3所帯一緒に住んでいたそうだ。
補給船がお米は大量置いていったが椰子の木以外何もないので、部隊を分けて農業隊、漁労隊、設営隊、見張隊、射撃隊など開墾して野菜を作ったり、魚は爆雷ほりこんで浮いてきた魚を集める。
「貴方は何していたの」「塹壕を掘って柱を立てて、屋根は椰子の葉と雑草を載せる。電波探知機や探照灯もあったよ」
「穴を掘ったり、開墾している時の服装は」
「褌一丁だ」「変な軍隊ね」「ちゃんと集まる時は制服を着る」
Y夫人が「内地は毎日空襲で食べる物は何もない。栄養失調で体中でき物が出来たりみんな苦労したのに貴方の方がぜいたくだったのね」
「塹壕の中に潜んで椰子の葉の屋根はあるけど暑いのなんのって、飛行機が飛んできて撃たれるし」
「インド人は見なかった?」「見なかったよ」
チャンドラ・ボースが1943年10月21日シンガポールで自由インド仮政府の宣言をしたが、国際法上、実際の国家がなければ承認されないのでアンダマン・ニコバル諸島を自由インド仮政府の領土として日イン共同防衛のために軍隊を常駐することになったのだがY氏は全然知らないと言っていた。
「そのうちに制空権も制海権もすべて失って下手に動けば爆撃されるので塹壕で潜んでいるしかなく、そのうちに連合軍が来て、全員レンパン島に移された。
レンパン島では我々の軍隊の組織のまま開墾して澱粉をとるいも(タビオカ)を生産していたが、レーションと言って慰問袋みたいな物が渡される。中身は缶詰、チーズ、チョコレート、コーヒー何でもが入っている、これだけ物力の違う相手と戦って、小鳥が鷲と戦っていた様だ。「軍隊は運隊だと言っていたが、玉砕して全滅する軍もあり、我々のように幸い生き残るものもある」
1946年5月にUSAのリバティ船で出発して10日で日本に着いたと話していた。

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