蛍
夕暮れ時に法然坂を降りて行くと、哲学の道はいつになく人々でに賑わっている。
「哲学の道は夜も観光客でいっぱいなの? もしかしたら蛍じゃない!」
「こんな汚い水に蛍がいるはずない」と夫は言った。
そぞろ歩く人々が影絵のようにモノトーンで、いつ表れたのかどんどん増えてゆく。
その時はじめて気がついた。家々の外灯は消され、闇の中に人々の顔、手足などがほのかに浮かび上がる。
「蛍、蛍だ!」観衆が揃ったところで幕はあがった。蛍は精一杯のデモンストレーション、一斉に飛び出した。六、七匹づつで隊を組んで、あちら、こちらに疎水の上を乱舞する。
人々は息をのんで見つめる。よく見ると木の葉、草むらにも点滅する。
四年前、祇園祭で京都に来た日の事が浮かんできた。
私と友達は「たまには居酒屋で飲みましょう」と法然坂をおりて疎水の近くの店に入った。
お客は無く、私達二人だった。おかみは五十がらみの普通の人だが、何故か初々しく素人っぽい頼りなげな人だった。
小鉢につまみを盛りながら「この店をやめようかと思ったりして、やる気が出ないのです」
「何故!とても良い店じゃないの」
「姉のように思う人と二人でお店を出していましたが、その人が亡くなって、私は腑抜けになりました。
お姉さんは大輪の花のように華やかで強くて理性的でした。
私はその人の陰で働いていれば毎日楽しかったのです。太陽を失った雑草のような私がどうして一人でやっていけるでしょうか!」
「もしかしたら、二人はレズでない?」友達が耳元でささやいた。
「今晩は、姉さん元気」
「ああ洋子さんお久しぶりね。お変わりなかった」
「私のハズがね、何かおかしな病気で入院して、やっと昨日退院して来たの。
彼のママはおかしいし、本当に此処へでも来ないとパンクしてしまう」
彼女の話によれば彼の母は街へ出かけると、行き当たりばったり彼女のものを買ってくる。
「大体、お母さんと私は世代も違えば趣味も違う。動物愛護の私に毛皮を買ってきたり、リオのカーニバルにでも着るようなビーズやスパンコールいっぱいの変にセクシーなドレスだったり、右と左が全く違う色のパンツルックのツーピース、ピエロじゃないんだよと投げつけてやりたくなる」
「男の子ばかり育てた人は息子のお嫁さんは可愛いものよ。娘で楽しめなかった分、もしかしたら自分が着られなかった分かな、貴方に着せて素敵な姿を見たいのよ」
「止めてくださいよ。私がそんな格好で歩いたら、とうとうあの人もキの字かと言われるわ、会社は厳しいのに、前門の虎後門の狼。全くやりきれない」
其処へ、そっと影のように男がのれんを分けてはいってきた。
「井上さんいらしゃい、お見限りだったのね」
「とうとう私も年貢の納め時、肝心かなめの肝臓がいかれて、命があるのが不思議なくらい。何か楽して暮らせる方法はおまへんか」
「あるわよ。新興宗教!こんな不景気な時には藁をも掴みたい。宗教にこる人が多いそうよ。二人で新興宗教作らない」と洋子さんが言った。「そうそう、今年疎水に蛍が帰ってきたのよ。闇に飛ぶ蛍を見ていると静かな安らかな気持ちになってね。お姉さんが帰ってきて一緒にいるようで、思わず振り返ったわ、姿は見えなかったけど息づかいは感じた。本当にいたのですよ」
「おかみさん、まだ忘れられないのね。日にち薬って言うけれど」
「ほたる教てのはどうかしら」思わず私が言った。
「ほうほうほうたるう こおおいいいい こっちのおおお みいいいずはああまいいぞおお。ああっちのおお みいずはわわ からいぞうう ほおおほおたるこおおいいい」
男は合掌してお経のように節をつけて唱え「こんなお経になるかな」と言った。
影の薄い男の影の薄い読経は不気味な自虐と同時にフッと突き抜けたような明るさがあった。
「気色悪い、やめてよ幽霊でも出そう。ぱっと景気よくやりましょう。まず祭壇作って、呼び込み屋雇って、ついでに祭壇は意表をついて思い切り派手にね」
「意匠デザイナーは義母さんにお願いしたら。スパンコールやキラキラビーズつかって受ける事間違いなしよ」友達が「乗り過ぎよ」と目でなじった。
先程からはもの皮と胡瓜の酢の物、高野豆腐と根菜のふくめ煮、人参と大根の白和えなど京のおばんざいでほろ酔い気分
「おかみさんお料理上手ね、とても美味しいわ」二人の会話さえ気にしなければ酒もよし、味もよし。
「今晩は」若い男が入って来たのをきっかけに私たちは店を出た。
家々は扉を閉ざし、月に照らされた白い坂道に二人と影だけがあった。
行き交う人はみな旅人、名も知らず一時を共にした。その光景だけがネガのように残る。

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