生きる 1
お互いに何年も知り合いでありながら知っていることは10%に満たないのではないだろうか。
T氏が来たとき「もう25年余の知り合いなのに貴方のことは何も知らない。作品だけしか見ていなかったのね」
昭和19年生まれ。
19年生まれの知り合いが5人いるが、皆に共通している事は真面目で世間におもねず、信念を貫き割の悪い生き方をしているが非常に清々しい人が多い。
ある人は「クラスに3.4人は戦争で父親を亡くした友達がいました。
僕の父は帰ってきたけれど全く廃人のようで閉じ籠もっているので母が店をして子供たちを育てました。年中貧乏で小学校は靴がないので草履や下駄で走り回っていました」と話した事があった。
T氏は話し出した。
父は散髪屋をしていたが、戦後の物不足、インフレの最中に4人の子供を食べさせ、学校へやるのは大変だったのだろう。何時も貧乏だった。
中学を出て直ぐ常滑の窯元に就職した。社長も可愛がってくれ、総て順調だったが、20歳の時どんなに名人になっても機械化され大量生産されるようになれば
人々はそちらを買うだろうと思うと厭になって赤津の家にかえった。
丁度東京オリンピックの年で、オリンピックをテレビで見たり、ゴロゴロして1ヶ月近くなった。
ある時、兄が「K先生の所に置いてもらえんか聞いて見よう」とK先生の工房へ連れて行ってくれた。
K先生の所へ入って希望がわいてきた。しかし兄弟子とソリが合わない。
ある日、師匠が「お前ら、何でそう喧嘩ばかりするんや。今日は聞いてやるから思い切り言ってみい。洗いざらい出してみい」と二人に言った。
途端に言葉が出ない。言う程の事でないと感じて馬鹿馬鹿しくなったのだろう。
それからは一所懸命邁進した。
名工大出の師匠の工房には立派な本があった。開いてみると、解らない言葉は沢山あるが、自分が経験している事なので、なるほどと曲がりなりにも理解できた。絶対に此の本を買おうと本屋に行って注文すると月給の6ヶ月分を超える。
「8ヶ月の月賦にしてくれないか」と言うと、「出世払いで良いですよ」と言ったが8ヶ月で返した。
23歳の時兄弟子と一緒に朝日陶芸展と現代工芸展にだしたが兄弟子は入ったが自分は落ちた。
翌年24歳の時日展に入選した。兄弟子は落ちた。
その「赫いつぼ」は柿釉を塗ったあとにベンガラ(鉄を焼いたもの)を水で溶いて更に上から掛けて焼いた赤いつぼだった。

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