「神は死んだのです」知人からの電話「ニーチェのツァラトゥストラ?」私は尋ねた。
「ニーチェと関係ありません」彼が言うには神社の氏子代表であったが、突然元気いっぱいだった連れ合いが亡くなり、喪中なので神社の役を遣るわけにはいかないのに、みんな代わってくれない。
「小学校の時父が亡くなり、3年間神社に行きませんでした。神社は神聖な所です」
彼は60代だが両親は明治生まれで「神は何処からでも見ていると言われて育った。
戦後の食糧難の時にも「魚は獲ってはいけない。其れで生計をを立てている人達がある。其れを侵してはいけない」大学を出た技術者だったが正論の為には飢えをも肯定する人だったと言う。生きた歴史を教えてくれた知識人で、反感と尊敬が複雑にない交ぜになっているのが解る。
連れ合いは外国人に日本語を教えるボランティアをし、英語の教室も続けていた。
氏子代表になったとき、世の中がおかしい。凶悪な犯罪が多く、若者に若さが無く、無責任な気がする。知人夫婦は世直しをしようとおもった。人間が神を忘れ、経済一辺倒になった世の中を何とかしなくちゃ!
祭りは非日常性で、身分の上下も貧富の差もない。日常性を離れて、人間として交友するには絶好で、それから新しい社会が出来るのでないか、どんどん屈折して行く社会を清らかな明るい社会への革命をしようと考えていた。
「日本人の神は八百万の神があり、グローバリズムなど無いときは、人々は其れを意識して、貧しくとも精神的には豊かな生活をしていました。今のように世の中が荒れてきたのは神々が死んだからです。僕は神社庁へ訴えようと思うと言うと人は僕のことをおかしいと言うが、制度としての神社なら廃止すべきではないですか」
「異端者と言う呼称は常に少数派にあてられるとエドワード・ギボンが書いています。
The appellation of heretics has always been applied to the less numerous party.
異端者となることはどんなに主張してもつぶされるだけだ。時には異常者と思われるかも知れないわ」
「人の心から神は死んだ、どうして形だけ行事をするのですか。今のこの末世もどうしようも無いのですか」
S氏(知人)は30年出合ったことが無いが、私のブログを見てコメントを書いてきたが仮名遣いなどに間違いが多くて気になって訂正すると、コメントを書くのがオックウになったのか電話で言うようになった。
私は何故か話しやすいのか、相談してくる人が多い。つまらないことで深刻に悩んでいる人も多く、鬱病的な人もある。
突然の妻の死に「両輪の輪の1つが欠けてどうして進むのですか」
総てを任せていた妻が亡くなって何も分からないうちに葬式をだした。何十年も英語塾と外人の日本語教室のボランティアをしていた彼女の葬式は大勢の参列者だったと言う。
その一人一人に「彼女の最後の旅立ちに最後の御伽を共に召し上がって下さい。総ての人にお料理を出した。
ある時「友達が酒を飲んで忘れろとバーボンを6本持って来てくれた」と酔って掛けてきた。
「こんな時に深酒しているとアル中になるわよ、酒を止めないと自滅しかないわ。酔っぱらいとは口を聞かない。シラフの時に掛けて!」と電話を切った。
1週間ほど経って「酒は止めました。いろいろ宗教の人々が来ました。様々な仏書や聖書や宗教家の本も読みましたが、行き着く所は原始仏教です。
釈迦の教えの原点に還るべきじゃないかと思います。「貪瞋痴」です。 貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろか)です。 あれから僕は朝5時に起き、飯を炊き、家の内外を掃除し浄め洗濯をし、畑に行き、野菜を収穫し、草を取り、種をまく。
僧侶が行を行うように一心に生きようと思いました。 あれから酒は飲んでいません。
自分の中に有る貪瞋痴を減らして、自分に起こった総てを認め、不条理と嘆かず、恨まず一所懸命に生きようと考えました。 このまま行けば薄汚い廃人になりますから。
この頃何故か、贅肉が取れたように気分がスッキリとしてきました。
友達や親戚の者が「奥さんがいなくても綺麗にしているね」といいます」
「貴方は何時か、神は有るのですかと尋ねたわね。人間は心の中に神も悪魔も持っている。その人の生き方に依っては私が神だと言う人もあるでしょう」
ニーチェは20世紀21世紀はニヒリズムの時代と予言したそうだが、ニヒリズムが蔓延すると心の萎えた末人が残る。末人はノミのように繁殖する。
ニーチェの時代は現世を否定し、来世に幸福を求める思想が普通だった。その頃日本もそうだった。
ニーチェは創造的に生き生きと生きることを説き、ツァラトゥストラで神は死んだと此までの価値観を否定して、現在を創造的に、積極的に生き生きと生きる強い人間、超人を説いた。
超人は最初は駱駝(ラクダは砂漠を重荷を負ってモクモクと進む。忍耐、努力、過酷な経験によって、強靱な肉体と精神を得る。次は獅子となる、獅子は総てに刃向かい闘う。 最後に幼子になる。無心に遊び、無垢に全力で進んで行く。其れが超人だと言う。
駱駝で肉体と精神を作り、獅子で歯向かい、独創的に闘いそして幼子のように純粋無垢に楽しむ。其れが超人なのだろう。
ツァラトゥストラはある時、幻影を見た。
砂漠で牧人がのたうち回って苦しんでいる。 大きな蛇が口に入りこんで牧人は其れを掴んで引っ張るが離れない。
ツァラトゥストラは「歯で噛み切れ」とさけんだ。 牧人は噛み切り大きな蛇は落ち、牧人は口から蛇の首をぺっと吐き出し、生き生きと高笑いした。
彼は超人になった。
超人はルサンチマン(恨み、ねたみ、嫉妬の感情)を持たず古い価値観にとらわれずクリエイティブに生き生きと生きて行く人の事だとあるが、「貪瞋痴」と「ルサンチマン」は人間の煩悩を指し、煩悩の解脱によって心の自由を得、クリエイティブな生き生きとした不動の心を持つ事が出来ると言う事だろう。

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