高田馬場では、左右両方の扉が開く。少なくともボクの通勤時間帯は。
もちろん電車のはなしなんだけど、ボクは毎日、そんな取り決めがあるわけ
でもないけど、同じ車両の同じ“右側”のドアから降りる。って言っても、
単にその方が東西線へと続く階段へのアクセスが、若干近いってだけの
はなしで。
さっきも言ったけど、高田馬場では左右両側の扉が開く。でも、同時じゃない。
同時には開かない。右側の扉は、左側の扉より少し遅れて開くのだ。左側が
開ききって、大体二秒くらいしてから、なんか思い出したように、プシューって
開く。何かが通り過ぎるような、そんな微妙な時間差。
先週のある日、通勤途中、ボクはいつもどおり自分の居場所とばかりに、
いつもの扉の脇の空きスペースを陣取って、いすの橋にある柵に腰を
もたれかけながら、スピノザのエティカの頁を繰ってた。内容の7、8割は
理解不能。でもなんか理解不能な要素を浴びてるその空間と時間が、別に
不快じゃないから、わからないまま、読み進めてた。
高田馬場が近くなる。競走馬のゲートインよろしく、ゲート前に降車客が
次々と襞を重ねて行く。みなが同じ方向を向くのは、良くも悪くも日本の
風景としてはなんかぴったり来てしまうから不思議。
いつもどおり、西武線特有のしれっとした感じの2、3分遅れで高田馬場の
プラットフォームに突入してく山吹色の車両。左右共にプラットフォームが
あるから、真ん中に穴作って、バー待ち、バーが来た、それ来たとばかりに
ぶちこむ、テトリス、そんな感じ。
ゆっくりと電車が停車位置を確かめながらスピードをゆるめてく。とまる。
まず左側、いや我々競走馬にとっての後ろ側の扉が、音を立てて開く。
プシュー
そこでことは起こった。規則正しく折り重なってた襞の一部が、その音に
反応して、ぺらりと裏返った。踵を返した今風の若者。ボクの視界の中から
退出してこうとする彼と、周辺野どうしで目が合った気がした。
蔑みの交差。
何が起こったか。それを考えようと、着くまでのお互いの想定に思いをめぐらせる。
ボクはご存知の通り、いつも例の扉から降りてるわけで、その“右側”の扉が時間差
で開くことを、実体験に基づいて知ってたわけで、右側の扉が開くことを想定してた
ってことになる。
それに対して、彼は、いや「彼は」っていうと断定的であれだけど、あくまで想像に
なっちゃうけど、彼もボクと同じように、右側の扉が開くことを想定はしてた。
ただ彼の場合、ボクみたいな実体験に基づいてじゃなくて、そこに居並んだボクを
含めた数名の姿を見て、その想定に至ったていう。
いや待てよ。
この考え、どこか変だ。
ボクはたとえ自分の実体験に基づいてたとしても、自分ひとりだけ右側の扉の
前にスタンバイして、その他全員が左側の扉から降りる“目”をしてても、
それでもその想定は揺るがないだろうか。
逆に、彼の想定が実体験に基づかないとは言ったものの、多くの人がスタンバイ
している方の扉が開く、ということを彼が実体験として学んでいたとしたら、
種類こそ違えど、それは実体験に基づいてることになるんじゃなかろうか。
現に、そこで右側の扉が開かないという可能性は排除できない。
後ろで扉が開いた瞬間、踵を返すのと同時、もしくはその寸前に、
彼は、明らかに、うちらを蔑んだ。間違ったサインを出してくれるな、と。
揃いも揃って間違えるとはどんな了見だ、と。おかげで恥ずかしい思いを
したじゃないか、と。急いでるのに、この時間返せ、と。なんかまるで
自分も一緒に間違えたみたいじゃな、
プシュー
目の前、彼にとってはすでに後ろ側の扉が開く。扉が開いたときは、いつも
彼は背を向けてたことになる。その愚かさを今度はボクが蔑む。今、うちらを
蔑んだだろう、と。この二秒程度も待てないとはどういう了見だ、と。そんな
に人を信じられないなら、元々一緒に並ぶな、と。勝手に信じて勝手に裏切ら
るなんて、どこまで勝手なんだ、と。
いつもどおり、その扉は開いた。開かない可能性もないではなかった。でも
開いた。開いたせいで、一瞬の蔑みの交差が、蔑みの一方通行になった。
想定が蔑みの交差を生み、結果の認識が蔑みの一方通行を生んだ。
開くか開かないか、ほんとは誰もわからない扉。
開くと思った扉が開かなかった。開く扉を開くまで待てなかった。
一方で、
開くと信じてる扉を、開くと信じられないやつがいた。
そんだけ。といや、そんだけ。
でも、そんだけ、と済まされないだけの、深紅の闇にも似た血を湛えた切り傷。
擦り傷にはない、このどうしようもない、痛み。傷み。
こうしてる今も、世の中では、あらゆる想定が蔑みの交差を生み、あらゆる結果の
認識が蔑みの一方通行を生んでる。
想定と結果を一本の線でつなげたら勝ち?逆に、つながらなきゃ負け?
因果律の向こう側にある、無限は完全無視?
そんな交差なら、ボクは平行線がいい。そう、ポリフォニーって意味で。

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