「もうかりまっか。」
「ぼちぼちでんな。」
こんなやりとり、まだあったりすんのかしら。いや、
まだって言うのは違うな、
実際にこんなやりとりしてる人
みたことない以上は。
でも最近、いろいろ考えてて思い至ったのは、この「
ぼちぼち」っていいなぁ、と。
景気不景気とか良し悪しとか、そういう
二分法的世界の彼岸にいながら、別にそれ
を見下すことも見上げることもせず、ただそれを目的ともせず、ただ「
商い」に
精を出した結果としての「ぼちぼち」。
いやね、「日本的霊性」で鈴木大拙がね、日本の固有語(まあかなりシンプルに
言ってしまえば訓読みの言葉かな)は、漢語(これは逆に音読みの言葉ね)に
比べて具体的だ、なんてことを「魂(たましい)」と「精神」を例に挙げて言って
たりしたんだけど、
「
商い」ってのもさ、やっぱし「商売」とか「経営」とか「営業」とかとはやっぱ
違ってもっと具体的でさ、レヴィ・ストロースの言う「
真正な社会」の持つ「
顔」
が見えるっていう部分がまだそこには残ってる気がして、どこか観念的で非現実感
のある「経営」が「成長」とか「発展」とか漢語的上昇を目指すのに対して、
「商い」の方はてぇと、やっぱしそこには「
ぼちぼち」があるんだよなぁ。
しかもなんかわかんないけど、直感的に思うのは、みんな「
商い」は「経営」に
発展する前段階の荒削りで未発達で非効率で時代遅れなものみたいに捉える傾向が
ある(おいらがかつてそうだった)けど、むしろおいらの思う「商い」は「経営」
的な「成長」の危うさを知った上で、あえて「経営」に抗した結果としての、
「
ぼちぼち」だと思うのね。
おいらはね、経済システムにおいては、売買は
等価の交換だと信じて疑わなかった。
だからもはや当然のように存在する売る側と買う側のアンフェアな関係、つまり
買う側が絶対的に売る側に対して権力を持つって構図に違和感が否めなかった。
でも、ようやくわかったことは、資本主義の経済システムの中では、
売る側は
等価の交換をしてない、つまり
売る以上の価値を買い手から得ようとしてる、
それがきっと拡大再生産ってやつであり、経済成長ってやつだ。
そこで
皮肉な倒錯が起こるんだ。あえてその関係をアンフェアにして、自分の立場
を貶めてまで「
あわよくば」を狙う、短視眼的権謀術数に身を委ねて、誰ひとり
ハッピーになりゃしない負の連鎖を引き起こして行く悲劇、これが悲劇でなくして
なんだろう。
自ら立場を貶めてアンフェアな関係に身を投じた売る側も、当然そのまんまじゃ
苦痛極まりないから、今まで見えてた「顔」、今までそれがあったから等価だった
「顔」を見えなくした。死の危険を感じたニワトリが穴を掘って顔をうずめて、
その現実をシャットアウトするように、売る側がいつしかのっぺらぼうよろしく、
「顔無し」と化して、「顔」を引っ込めた。
買う側は買う側で、しめたとばかりに「顔」が見えないのをいいことに、自らの
「与えられた立場」に酔いしれ、等価な交換では全く意味をなさない勝手な権利を
主張しはじめる。
「こっちは金払ってんだ」
しかして、世は「
ぼちぼち」とはかけ離れた、成長一辺倒の「顔」なし社会へと
絶望的変貌を遂げてしまったとさ。
でも、おいらは悲観ばかりもしてなくて、
そんな中でも、完全に「顔」の見えない社会なんて、それもまた想像上のもんでし
かなくて、「他者」との関わりなくして「自己」の存在しえないこの世において、「顔」の見える社会は、どっこいあちこちで生きてる。そういう人や場所や関係を、
おいらは生涯を通して、だいじーにだいじーにしていきたいのだ。

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