2018/4/20

4420:21番  

 東京文化会館小ホールでのコンサートを聴き終えてから、幾つかの電車を乗り継いで自宅に帰り着いた。時計の針は11時をほんの少し回っていた。

 体は仕事とコンサートそして長距離の移動によって疲れていたが、私は自宅の1階にあるリスニングルームに入った。

 少しの時間であってもやっておきたいことがあった。それは我が家のオーディオシステムの音を聴くことである。

 東京文化会館の小ホールのちょうど真ん中あたりの席で聴いてきたピアノの音の記憶がまだ脳内に新鮮な状態で残っているうちに、音の検証を済ませておきたかったのである。

 オーディオの音の質感は、実際にコンサートホールで聴いてきた音の質感に似せる必要性は必ずしもあるわけではない。

 そのオーナーが心地よいと思える音の質感や音量に設定すればいいのであって、それはオーナーの自由である。

 しかし、コンサートを聴いてきた直後というのは、「できればコンサートホールで聴いてきたような自然な音の質感であってほしい・・・」という気持ちになっていることが多い。

 システムの電源を入れた。真空管にオレンジ色の灯りがともった。シューベルトのピアノソナタ第17番のCDはなかったので、かわりに第21番のCDの第1楽章を聴いた。

 演奏は内田光子。第21番はピアニスティックな魅力に溢れた、長大な規模を誇る最後のピアノソナタである。

 内田光子が所有するスタインウェイを用いて、ウィーンのムジークフェラインザールで収録さたものである。

 普段のボリューム位置で聴き始めた。「ちょっと音量が大きいか・・・オーディオの場合そうなりがちなんだよな・・・」そう思いながらMarantz Model7のボリュームノブを少し反時計回りに回した。

 コンサートホールでは座る席によって耳に到達する音量は変わる。今日座った小ホールの真ん中あたりでは、音が頭ごなしに覆いかぶさってくるようなことはない。

 かといって、こちらから神経を研ぎ澄まして聴きに向かうほどまでに音量が小さいわけでもない。そういった中庸のバランスになるように音量を調整した。

 「このくらいでいいんだよな・・・ついついオーディオ的な快感を求めていくと音量は大きくなりがち・・・」

 「自然」ということは多少なりとも「退屈」を孕んでいるもの・・・「飽きのこない退屈さ」がもっとも自然なポイントなのかもしれない。

 この曲はシューベルトが彼の早すぎる死の数週間前に作曲したもの。大きなピアノソナタで第1楽章だけで20分ほどかかる。

 この第1楽章はとても繊細で移ろいやすく、純粋な優しさに満ちている。そして、不遇や死に対する恐れや悲しみに満ちているかと思えば、時としてそれらを超越した静かな諦観の心境も垣間見せる。

 その第1楽章を聴き終えて、オーディオシステムの電源を落とした。大変古いイギリス製のスピーカーと、同じく60年ほどの時の経過を体験しているアメリカ製の真空管アンプが奏でる音は「飽きのこない退屈さ」を表現できているようであった。なんだかほっとした。このようにして長い一日は終わろうとしてした。

 コンサートホールへは月に一度ほど足を運ぶ。繰り返されることのない時間に数千円を支払う。その対価は高いと思えるときもあれば、安い時もある。今日は後者であった。




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