2017/5/18

4084:8:00  

 「実家にいる弟が自閉症だっていう話は以前しましたっけ・・・?」

 「ゆみちゃん」は「Mimizuku」のカウンターの上にあるアイスコーヒーの入ったガラスコップに付いた結露を右手の人差し指でなぞって流すようにしながら、そう言った。

 ナポリタンが盛られていた白く大ぶりな皿は、オレンジ色の痕跡を全面に残したまま、動かされることなく佇んでいた。

 「聞いたことあるよ、随分前に・・・弟さんは何歳下・・・?」

 「三つ下・・・」

 「ご両親は大変だったでしょう・・・?」

 「ずっと、大変で。母はいつも弟のことばかりで・・・」

 MimizukuのカウンターにはSONY製のラジカセが置いてある。私が選んだカセットがそのなかに入っていて、ゆっくりと回転していた。モーツァルトの弦楽四重奏曲 第22番が静かに流れていた。

 「もっと自分のこともかまって欲しかった・・・?子供の頃・・・」

 「そうかもしれない・・・でも、いつも弟に振り回されていたから・・・家族全員が・・・」

 「弟のことが嫌だった・・・?」

 「嫌だったのかも・・・弟が普通だったらどんなに良いかもって思っていた・・・」

 「まあ、それが普通だよね・・・」

 私の前に置かれたコーヒーカップにはまだ3分の1ほどコーヒーが残っていた。右手の人差し指を鉤の形にしてカップの取っ手に引っ掛けた。そして親指の腹で押さえた。カップの重みを感じながら持ち上げ、口元へ運んだ。

 「『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』、読んだ・・・?」

 私は一昨年読んだ本のことを思いだして彼女に訊いてみた。たまたま見かけたテレビ番組で紹介されていた。著者の東田直樹さんは重度の自閉症である。そのため、言葉を発して会話を行うことは困難である。文字盤のポインティングか筆談を用いてコミュニケーションを行っている。

 その彼が著した本の内容は衝撃的なものであった。外見だけ見ていると全く窺い知ることのできない自閉症患者の内面が見事に書き記されていた。

 「読みました・・・ボロボロに泣きながら・・・家族に自閉症患者がいる人にとっては涙なしには読めない本ですね・・・あの本を読んでから弟に対する気持ちも随分と変わりました。でもこの前ゴールデンウィークに実家に帰省したんです。弟は相変わらず、意味のない言葉を何度も繰り返したり、急に窓から見える何かに気をとられて長い時間ある一点をじっと凝視したりで・・・」

 「意味のない言葉・・・?」

 「そう、本人には何かしらの意味があるかもしれないけど、家族も訳が分からなくて・・・この前は何度も『4時に、冷蔵庫に入れる』って繰り返していました。」
 
 「『4時に冷蔵庫に入れる』・・・何だかミステリーだね・・・好きなデザートのことなのかな・・・しかも時間が指定されている。」

 「壊れたロボットが不自然な動きをするように、弟も思いと動きが上手く繋がらず、その表面だけ見ていると、意味不明なんですけどね・・・」

 Mimizukuのカウンターの端にはパラパラ時計が置いてある。表面がオレンジ色のその古い時計が、「パサ・・・」と音をたてた。ちょうど「8:00」と表示されたところであった。




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