2009/11/26  23:50

耐え難い「無」 〜相対性俳句論(断片)  俳句

たぶん、人は無に耐えられないのかも知れない。

意味が必要なのだろう。

限りなく意味を遡及していく、あるいは逆に、「意味がない」と意味づけする、ということで、安心できるのだ。

耐え難い現実は、自分にとって「意味のあるものだ」と考えることも、「意味なんてないんだよ」と嘯くことも、その地平は一緒なのだろう。

「無」というものが耐え難いからこそ、古来より「無」の境地が人間の究極の精神状態として語られているのだ。

僕たちの「関心」は、この「無」という核をタマネギのように包み込んでいる。

俳句において、何か〈新しい〉ものが見込まれるのだとすれば、それは「無」へ腕を突っ込むような行為に違いない。耐え難い「無」へ。

「俳句」は、既に有るものたちで構成されているものだから、いつだって「また、あの話か」なのだ。

常に存在に絡め取られてしまう。

「俳句という枠組み」に囚われることは、概ね否定されがちだが、一方で「俳句という枠組みに囚われることを非難する」という、ひとつのスタイルもまた「俳句の枠組み」の一部なのだ。

そうやって「ここに無いもの」を語るたびに、それは「有る」の世界に付け足されていく。存在が肥大化していく。

だとすれば、俳句は「存在へ回帰しながらも、常に無いもの」を求めるしかないのではないか。

つまりは、亀を追うアキレスのように。


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タグ: 俳句 作品 文学



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