2009/11/20  2:42

ものを見ること/関心 〜相対性俳句論(断片)  俳句

私たちは「関心」をもって、ものを見る。

「関心」があるから、ものが見える。

逆に言えば、「ものを見る」ということは私の「関心」を証明することに他ならない。

中でも、じっと注意を払って見ていることで最初は気付かなかったことに気付くことがある、という意見については、田島さんが「さっき受付のテーブルに置いてあったものを思い出して句を作れと言われても難しい。それは、我々がテーブルに特に注意を払っていなかったからだ」と擁護していたのが、具体的で説得力があると感じた。(写生 「超える」ための方法
「現代俳句協会青年部・第114回勉強会」レポート) 山口優夢


私たちの「関心」が、ものを見ることを支配しているのだとすれば、仮に私が受付のテーブルの上に「関心」を示してものを見たとき、私はそのテーブルの上のものを「確かに」見ている、と言うことができるだろうか。

つまり、私がどのように「正しく」ものを見ようと努力しても、おのずとその「関心」の足りなさから、私には「見えていないもの」がないだろうか。

逆に「関心」がありすぎるために、「余計な」ものを見過ぎていることはないだろうか。

つまり「見る」ということは、そのような「過不足」を常に孕んでいるのだ。

私たちは、「過不足」なく、「正しく」ものを見ることはできない。そのような「正しい」状態がまず存在して、その後に私たちの「歪んだ」ものの見方が現れるのではないのだ。

私たちは常に何かを見過ごし、何かを見過ぎてしまう。

そのような「正しい」ものの見え方、というゼロ地点から「過不足」というプラスとマイナスの方向への振れ幅、それがつまり、私たちの「生」そのものだ、ということだ。

私たちが生きている、ということに「何も意味はない」のだというゼロ地点が仮にあるとするならば、その意味の無い「生」を、幸福と不幸というプラス/マイナスの方向に引き裂くのは、私たちのものの見方が、そのような構造になっているからだ、と言うことができるだろう。このゼロ地点と、私たちが「ものを見る」ときの「過不足」、この差異こそが私たちの欲望を支えている。

俳句が、ものを見る、ということで、ものを見る、ということが私たちの生きることへの「関心」を支配しているのだとすれば、俳句が私たちの生きることそのものだ、ということが分かるだろう。

生きていることが、俳句の対象や題材なのではなく、生きる、ということの枠組みそのものが俳句における「ものを見る」という行為を支えているのだ。


 したがってラカン的な視点からすると、〈現実界〉的なものとしての対象は結局のところある種の限界にしかすぎない。われわれはそれを追い越し、追い抜くことはできるが、捕まえることはできない。これが、アキレスと亀という古典的な逆説のラカン的読解である。もちろんアキレスは亀を追い抜くことはできるが、亀に追いつき、捕まえることはできないのである。これはまた有名なブレヒト『三文オペラ』の幸福の逆説に似ている。あまり必死になって幸福を追いかけちゃだめだ、幸福を追い越して、後ろに置いてきてしまうかもしれないから……。これこそがラカンのいう〈現実界〉だ。それはつねにわれわれの手から擦り抜けるある種の限界であり、われわれはつねに早すぎるか、遅すぎるか、そのどちらかだ。(『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳 河出書房新社)


ラカンによれば、アキレウスと亀のパラドックスは主体と彼の欲望の対象との関係をあらわしている。ポルノグラフティもまた、このパラドックスの一つのヴァリエーションにすぎないのである。当然、アキレウスは簡単に亀を追い越し、亀を後ろに置き去りにすることができる。問題は、アキレウスは亀と並び、亀といっしょになることができないということである。主体はつねに遅すぎるか速すぎて、自分の欲望の対象と同じペースになることができない。「正常な」ラヴストーリーでは、到達しえない/禁じられた対象──性行為──に接近はできるが、手に入れることはできない。この対象は、隠されたもの、示唆されたもの、「見せかけ」としてしか存在しない。「それを見せた」とたん、その魅力は消え失せる。われわれはそれを「通り過ぎて」しまったのだ。われわれは、崇高な〈物自体〉ではなく、卑俗で呻き声をあげている姦淫に突き当たる。(『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳 青土社)
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タグ: 俳句 作品 文学





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