2009/11/18 1:44
〈新しさ〉とは何か 〜相対性俳句論(断片) 俳句
第113回現代俳句協会青年部勉強会行動する子規―革新の力学― 報告
〈新しさ〉とは何か 〜子規の俳句革新について
俳句における〈新しさ〉とは何か。
これは長い間「老人文学」と呼ばれている俳句にとって常に「古くて新しい」論件である。
ここで確認すべきことは、それが作品上の「主題化」された言葉の相対的な「新しさ」のことではない、という点だ。言うまでもないことだが、「携帯電話」という言葉を使った俳句が「新しい」わけではない。都会的な言葉を使った作品が、花鳥風月を示す言葉を使った作品よりも「新しい」のではないし、その逆もまた然りである。相対化された時間軸のなかで、時間的に「古い」俳句と「新しい」俳句があるのではないのだ。
また「新しさ」とは「時事性」「社会性」「思想性」のことでもない。むしろそのような「新しさ」を根拠付けることのできる「前提」を持たないということが、〈新しさ〉の重要な要素だということだ。俳句の〈新しさ〉は、「古さ」との間に境界線を持つような相対的な概念ではないということである。
俳句における〈新しさ〉について考えるとき、常に念頭におくべきひとりの人物がいる。──正岡子規、である。子規について思いを馳せるとき、俳句の〈新しさ〉についてのひとつの観点が見えてくる。それは「〈新しさ〉とは実体を持たない身振りである」ということだ。
私たちが子規の「俳句革新」について、「具体的に何をどのように革新したのか」とか「革新を証明する子規の作品はどれか」などと問うのは、子規の「俳句革新」が何か「革新」と呼ぶべき「実体」を持つ、という前提に立つ点で、〈新しさ〉について完全に見誤っている。
子規が何か実体のある「俳句革新」を行った、のではなく、俳句について子規が行った「実体を持たない身振り」を、その関係者たちが「俳句革新」として理解したということなのである。
虚子や碧梧桐にとって子規が俳句革新者である理由は、子規の具体的な思想や作品にあるのではなく、それを行ったのが「子規だから」なのである。
なぜ「子規だから」なのか。
それは、虚子や碧梧桐にとって子規は「〈新しさ〉を示すために必要な、実体を持たない身振り」を知ると想定された唯一の人物だったからである。
そのような「知ると想定された主体」のことを、私たちは「師」と呼ぶのだ。
若き日の子規は、この「〈新しさ〉を示すために必要な、実体を持たない身振り」を繰り返した。今回の勉強会では、そんな若き日の子規に焦点をあてた。そして私たちが知る「俳句革新者」としての子規は、そのような若き日の子規の延長上に、いまもいる。
(現代俳句11月号掲載)
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〈新しさ〉とは何か 〜子規の俳句革新について
俳句における〈新しさ〉とは何か。
これは長い間「老人文学」と呼ばれている俳句にとって常に「古くて新しい」論件である。
ここで確認すべきことは、それが作品上の「主題化」された言葉の相対的な「新しさ」のことではない、という点だ。言うまでもないことだが、「携帯電話」という言葉を使った俳句が「新しい」わけではない。都会的な言葉を使った作品が、花鳥風月を示す言葉を使った作品よりも「新しい」のではないし、その逆もまた然りである。相対化された時間軸のなかで、時間的に「古い」俳句と「新しい」俳句があるのではないのだ。
また「新しさ」とは「時事性」「社会性」「思想性」のことでもない。むしろそのような「新しさ」を根拠付けることのできる「前提」を持たないということが、〈新しさ〉の重要な要素だということだ。俳句の〈新しさ〉は、「古さ」との間に境界線を持つような相対的な概念ではないということである。
俳句における〈新しさ〉について考えるとき、常に念頭におくべきひとりの人物がいる。──正岡子規、である。子規について思いを馳せるとき、俳句の〈新しさ〉についてのひとつの観点が見えてくる。それは「〈新しさ〉とは実体を持たない身振りである」ということだ。
私たちが子規の「俳句革新」について、「具体的に何をどのように革新したのか」とか「革新を証明する子規の作品はどれか」などと問うのは、子規の「俳句革新」が何か「革新」と呼ぶべき「実体」を持つ、という前提に立つ点で、〈新しさ〉について完全に見誤っている。
子規が何か実体のある「俳句革新」を行った、のではなく、俳句について子規が行った「実体を持たない身振り」を、その関係者たちが「俳句革新」として理解したということなのである。
虚子や碧梧桐にとって子規が俳句革新者である理由は、子規の具体的な思想や作品にあるのではなく、それを行ったのが「子規だから」なのである。
なぜ「子規だから」なのか。
それは、虚子や碧梧桐にとって子規は「〈新しさ〉を示すために必要な、実体を持たない身振り」を知ると想定された唯一の人物だったからである。
そのような「知ると想定された主体」のことを、私たちは「師」と呼ぶのだ。
若き日の子規は、この「〈新しさ〉を示すために必要な、実体を持たない身振り」を繰り返した。今回の勉強会では、そんな若き日の子規に焦点をあてた。そして私たちが知る「俳句革新者」としての子規は、そのような若き日の子規の延長上に、いまもいる。
(現代俳句11月号掲載)
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