2009/10/28  2:19

手に負えないもの 〜相対性俳句論(断片)  俳句

俳句も仕事も「手に負えないもの」を扱っている。

だから、どんなに理路整然としていても、そのような「手に負えないもの」に対峙していない言説は、ほとんど必要ないに等しい。

「手に負えないもの」が厄介なのは、それが「手に負えないもの」であることを、経験や知識で判断することができない、ということだ。

そのような判断の外に位置しているからこそ、それは「手に負えないもの」なのだ。

俳句についてのさまざまな言説について、やはり「問題の立て方が違う」と感じることが多いのは、ある種の命題について、つまり私たちが対峙すべき問題を、私たち自身が選択できる、というような視点から設定された「解決可能な」あるいは「議論可能な」問題として提示されていることがほとんどだということだ。

「手に負えないもの」とは、文字通り「手に負えないもの」なのであり、なにかぐうの音も出ないような、激しい苦痛に近いものだ。

俳句について語ることばが、常に俳句を目的語としてしまうことの難しさ。「俳句で」「俳句を」「俳句について」というかたちで、俳句を「対象」として語ることの違和感。(その違和感を説明するために、また「俳句について」と書かざるを得ないということ・・・)

言うまでもなく、俳句は「対象」ではなく、世界を「対象化」するための一つの視線であり、視点であり、眼であり、眼球であり、網膜なのだ。

だから俳句は対象化不能な、ひとつの「近さ」である。


だれも、「あなた」に俳句を背負うことを求めてなんかいないんだよ。

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