2009/10/23  1:36

また、写生ですかG 〜相対性俳句論(断片)  俳句

このところ、仕事で終電つづきで眠くてしょうがない。

眠いとイライラするのは、僕だけか。

未熟者の僕は、ついイライラしてしまい、嫌な感じをかもし出していると思う。たぶん。ごめん。

先週末の現代俳句協会青年部の勉強会は、準備不足だった割には内容の濃いものになったと思う。問題の核心に触れた。

来れなかった方は、残念。

「写生」というものを、シンプルな技術論であるとか、けったいな人生論であるとか、不可解な異化作用であるとか、いろいろと見方はあると思うが、俳句作家にとって、それは、ひとつの経験ということができるだろう。

おそらく「見る」という行為が、「見る」主体の視線を追い越してしまうことがある、ということなのだ。

つまり、見ているもの以上のものが見えてしまう

このような物言いが、根拠のない精神論に聴こえてしまうかも知れないが、そうではない。

私たちが日常生活のなかで過ごしている、「原因と結果」が逆転する出来事。それはまさに、それが時間的な出来事であることを示している。

「主客の逆転」。「見ている私」が「見ている対象」から「見つめ返される」ということ。

そのような立場に立つ(立ってしまう)とき、あたかもこれまでの日常がかすんで消えてしまい、これまで「染み」のようなものに思っていた些細な「異物」が活き活きと意味を持ち出すのである。

「写生」を行う私という主体は、無限の領域から見れば、ひとつ限界であり消すことのできない「からだ」だ。

その「限界」近くでかろうじて生きている、ということは、曖昧な人生論でもなければ、根拠のない精神論でもなく、非常に具体的な「態度」とも呼べるものである。

その意味では、波多野爽波が言うように、俳句は「スポーツ」に近いものかも知れない。

以上のような「写生」における出来事について考えるときに、爽波の「俳句スポーツ説」には、ひとつの大きな問題があると思う(それについては、勉強会で述べた)のだが、それについてはまた改めて整理したいと考えている。

いずれにせよ、現代俳句協会青年部の勉強会は、これから徐々に面白くなってきそうな予感がしてきた…ような気がするのは、僕だけなのかなぁ…
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