2005/11/30 20:47
言葉の機能 〜相対性俳句論(断片) 俳句
あたりまえのことですが、言葉は重ねれば重ねるほど、世界を限定していきます。
たとえば「水」と言った場合、誰もが普遍的な「水」のイメージを思い浮かべるでしょう。(ここで「普遍的」といったのは、つまりはさまざまなかたちになりうるという前提(あるときは海の水であり、あるときはコップの水であるような)で、その共通項を総合した、というような意味のつもりです。。。)
これを、「みずうみの水」と言えば、この水のイメージは途端に限定され、ある人は琵琶湖の水を思い浮かべるかも知れません。
また、「洗面器の水」といえば、これはまた違った「水」のイメージを思い浮かべることでしょう。
「顔を洗った洗面器の水」と言えば、もっと世界は限定されるわけです。さらに、「恋人が顔を洗った洗面器の水」なのか、「親父が顔を洗った洗面器の水」なのかによって、そのイメージの「水」の透明度まで変わってくるかも知れません。
つまり、言葉は重ねれば重ねるほど、そのイメージを限定していく機能を持っているわけです。
一方で、僕達の想像力は、俳句において世界が限定されすぎることを嫌います。
「いいすぎ」とか「理屈っぽい」というのが俳句においては批判的な感想であり、「ひろがりがある」「想像させる」ということが俳句においては誉め言葉となるわけです。
そして、前述した通り、イメージが多様なかたちを含んでいるとき、どうやら僕達は「普遍性」を感じるようです。
さて、つまり俳句はひとつの大きな矛盾を抱えているわけです。
つまり、イメージを限定していく機能をもった言葉をつかって、イメージを広げる方向へ言葉を構築していく。
おそらく、この矛盾にぎりぎりまで耐えた句が、句としての緊張感を保っている句であり、僕が求めているのはそういう句だと考えています。
ちなみに、俳句における「切れ」とは、この矛盾を解決するためのひとつの俳句的な手段であり、だから僕は俳句において「切れ」が重要な働きをすると考えています。
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たとえば「水」と言った場合、誰もが普遍的な「水」のイメージを思い浮かべるでしょう。(ここで「普遍的」といったのは、つまりはさまざまなかたちになりうるという前提(あるときは海の水であり、あるときはコップの水であるような)で、その共通項を総合した、というような意味のつもりです。。。)
これを、「みずうみの水」と言えば、この水のイメージは途端に限定され、ある人は琵琶湖の水を思い浮かべるかも知れません。
また、「洗面器の水」といえば、これはまた違った「水」のイメージを思い浮かべることでしょう。
「顔を洗った洗面器の水」と言えば、もっと世界は限定されるわけです。さらに、「恋人が顔を洗った洗面器の水」なのか、「親父が顔を洗った洗面器の水」なのかによって、そのイメージの「水」の透明度まで変わってくるかも知れません。
つまり、言葉は重ねれば重ねるほど、そのイメージを限定していく機能を持っているわけです。
一方で、僕達の想像力は、俳句において世界が限定されすぎることを嫌います。
「いいすぎ」とか「理屈っぽい」というのが俳句においては批判的な感想であり、「ひろがりがある」「想像させる」ということが俳句においては誉め言葉となるわけです。
そして、前述した通り、イメージが多様なかたちを含んでいるとき、どうやら僕達は「普遍性」を感じるようです。
さて、つまり俳句はひとつの大きな矛盾を抱えているわけです。
つまり、イメージを限定していく機能をもった言葉をつかって、イメージを広げる方向へ言葉を構築していく。
おそらく、この矛盾にぎりぎりまで耐えた句が、句としての緊張感を保っている句であり、僕が求めているのはそういう句だと考えています。
ちなみに、俳句における「切れ」とは、この矛盾を解決するためのひとつの俳句的な手段であり、だから僕は俳句において「切れ」が重要な働きをすると考えています。
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2005/12/1 22:41
投稿者:TENKI
http://tenki00.exblog.jp/