「「愛」って呼んぢゃえばいいじゃん 〜相対性俳句論(断片)」
俳句
まだ見ることのない未来。
その未来に対する約束こそが、人が人と関わる、ということなのかも知れない。
俳句は、言葉を通じてそのような「約束」へ開かれている。
例えば、僕たちは「愛」の恩恵を受けて生きているわけではない。
人は「愛」に何かを期待するけれど、本来「愛」とはまだ手もとにない時間である。
「愛」はつまり、人を裏切ったり、人の期待に応えたりするようなものではない。
「愛」の恩恵を受けているのではない、ということは、僕たちにとって「生きる」ということが「愛」を起源としていない、ということである。
愛されるから、人を愛するのではない。
「愛」は、その恩恵に関わらず、未来を先取りするかたちで到来する。
例えば、夫婦の間に「愛」というなにか都合のよいものがあるのではないし、その「愛」によって夫婦は繋がっているのでもない。
お互いに、何か足りない者として、あるいはお互いに「よくわからない者同士」として、あるときは片方の足りないところを片方が補うことで助け合い、あるときはお互いに力が足りずに一緒に笑うしかないような、そうであるしかしょうがないような関係である。
そして、ときどき、もうどうしようもないくらい不思議な、感性というか感覚というものを夫婦が共有することがあるとき、もう、それは謎と呼ぶしかないような、そういう出来事がもたらされるとき、
それを「愛」って呼んぢゃえばいいじゃん。
もちろん、俳句における作者と読者の関係も、同じだ。
人と人の間にもたらされる、そのような「約束」と呼ぶことのできるような「時間」。
人生に価値があるとすれば、あるいは俳句を詠むことに意味があるとすれば、そのような時間がもたらす、感情のざわめきや、精神のひびきなのである。
俳句の価値は、言葉を伝えることではないし、その言葉の文脈的意味を伝えることでもない。その「意味の意味」が読み手に「響く」ことこそが、俳句が僕たちに求めていることなのではないだろうか。
俳句は、言葉で人を抱きしめる。
そういうものなのぢゃないかな。
壷焼や日記に書けばあかるき日 たじま
参照:「約束」としての俳句 〜相対性俳句論(断片)