2007/3/29 0:19
俳句の自由についてA 〜相対性俳句論(断片) 俳句
前のコラムの続き。
「俳句では、何でも詠める」というのは、どういうことか。
長谷川櫂さんがシンポジウムで僕の問いに対して、どういう意図でこの言葉を言ったのか、という点については別として、この「何でも詠める」ということについて、少し考えてみたい。
実は、このことを書くには、いろいろと遠回りしなければならない。
だから、ずっとこのことを書きたかったのだけれども、なにせ、怠け者の僕は、書くのをためらっていた。
だって、長くなりそうだから。
だから、できるだけ、細く長く息を吐くようなつもりで、書けるといいな…
☆☆☆☆☆
さて、まず厄介なことは、俳句が「ことば」だということなのです。
それは「音楽」や「映画」や「漫画」や「彫刻」といったものと根本的に異なっているわけです。
例えば「音楽」を聴くとしましょう。JPOPとか。
それは、メロディとか、声とか、歌詞とか、ダンスとか、様々なものから出来ているわけです。その「音楽」を作る人によって、歌詞の雰囲気が違ったり、ダンスの激しさが違ったりするわけです。けれども、それでも「聴き手」たちは、それを「音楽」として聴くわけです。
つまり、質料としての「音」や「光」や「紙」や「石」というものがまずあって、そこにどのような「かたち」が与えられていても、その受け手は「質料」を取り違えることはないのです。
けれども「ことば」というものは、日常生活の中で、日々、必要に応じて誰もが使用しているわけです。
そのために、多くの場合「俳句のことば」は、「日常のことば」として理解されてしまう、ということなのです。
うーん、ちょっと上手く書けないなぁ。
では「俳句のことば」と「日常のことば」は、どう違うのか。
ことばのある作用について、以前、このブログでも書いたことがあります。(こちら)
つまり、日常生活の中での「ことば」は、意味を限定するために使うわけです。
その何かを意味する「ことば」は、その「何か」以外の何ものでもないわけです。
当然です。
「りんご」という言葉が、「りんご」以外の、例えば「猫」というものを指し示していたら、ややこしいわけです。日常生活が混乱してしまう。
そして、「ことば」と、それによって作られた「文脈」の意味を価値付けすることで、僕たちの生活は成り立っているわけです。
「ねぇ、ご飯にする?お風呂にする?」
ま、いまどき、こんな会話をしている家庭があるとも思えないのですが…
ここでは「ご飯」と「お風呂」の意味は特定されていて、そのことによって、この言葉は、妻から夫へのメッセージとして機能する(少なくとも、機能すると期待されている)わけです。
こうした「日常のことば」として俳句が読まれることで、非常に多くの俳句がほとんど無意識に「意味」を「価値」としているのです。
これは「意味がある」から価値がある、とか、「意味がない」から価値がある、とか言うことを言っているのではありません。
そのような「意味がある」から「意味がない」までの「意味のグラデーション」を「価値」とみなしていた、ということなのです。
そして、僕自身も含めて、俳句は「ついつい」、こうした「意味のグラデーション」を読まれ、その価値を評価されてしまうわけです。
けれども、「音楽」の歌詞の意味が、「音楽」の価値でないように、「俳句」の価値もまた、「俳句」のことばの意味、ではないのではないか。
いや、いや。そうではないような「在り方」がないだろうか、ということなのです。
そして、以前も書いたように、「俳句」の価値は、その「ことば」の意味ではなく、俳句そのものが内在する「不可能性」にある、ということなのです。
で、この「不可能性」を出したとたんに、わけがわからなくなっちゃう。
ちなみに、もう一度書いておくと、この「不可能性」というのは「できないこと」であり、「わからないこと」であり、「知り得ないこと」なわけです。
それは、情報が足りなくて「わからない」というようなものではありません。
また、経験を積めば「できるようになる」というものでもないわけです。
※「不可能性」については、本ブログのこちらを参照ください。
「ことば」の意味に価値を見出す、と考えている人は、「俳句では、何でも詠める」ということについて、こう、考えがちです。
つまり、「俳句で何でも詠める、ということは、花鳥風月だけでなく、日常的な題材を読むことができる、ということである」と。
新興俳句運動のひとつの試みが「題材」の刷新であったことや(こことここ参照)、人間探求派の誕生に際して、楸邨が述べた「生活」という言葉を取りちがえた(と僕は考えているのですが)、いわゆる「厨房俳句」「生活俳句」の作者たちも、この「日常的な題材」を俳句に詠むことが、俳句の可能性を広げる、と考えたのは、このあたりに由来すると、僕は考えます。(新興俳句はそれによって「俳句の可能性」を「広げた」かどうかはともかく、「俳句の可能性」に光をあてた、という意味では評価に値するわけです)
けれども、もう一度、確認します。
「日常のことば」は、意味を限定するところに、その機能を発揮しているわけです。
「意味の限定」これが「日常」なのです。
とすると、
「俳句で何でも詠める、ということは、日常的な題材を読むことができる、ということである」
というのは、ちょっと怪しくなってきました。
つまり、俳句において、「ことば」の意味に価値を見出すことは、「日常」における「ことば」の限定された意味によって、俳句を作ったり読んだりする、ということなのではないか。
さて、疲れてきました。
で、実は、こうした状況の中から、ひとつの新しい俳句の傾向が生れてきました、と僕は思っています。。
それは、
「この句には、意味という価値はないんだよ」という「意味の意味」をメッセージとして付加する、いわゆるメタメッセージ付きの句です。
…と、ここまで書いて、疲れましたので、今日はここまで。
また、後日、つづきを書きます。たぶん。
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「俳句では、何でも詠める」というのは、どういうことか。
長谷川櫂さんがシンポジウムで僕の問いに対して、どういう意図でこの言葉を言ったのか、という点については別として、この「何でも詠める」ということについて、少し考えてみたい。
実は、このことを書くには、いろいろと遠回りしなければならない。
だから、ずっとこのことを書きたかったのだけれども、なにせ、怠け者の僕は、書くのをためらっていた。
だって、長くなりそうだから。
だから、できるだけ、細く長く息を吐くようなつもりで、書けるといいな…
☆☆☆☆☆
さて、まず厄介なことは、俳句が「ことば」だということなのです。
それは「音楽」や「映画」や「漫画」や「彫刻」といったものと根本的に異なっているわけです。
例えば「音楽」を聴くとしましょう。JPOPとか。
それは、メロディとか、声とか、歌詞とか、ダンスとか、様々なものから出来ているわけです。その「音楽」を作る人によって、歌詞の雰囲気が違ったり、ダンスの激しさが違ったりするわけです。けれども、それでも「聴き手」たちは、それを「音楽」として聴くわけです。
つまり、質料としての「音」や「光」や「紙」や「石」というものがまずあって、そこにどのような「かたち」が与えられていても、その受け手は「質料」を取り違えることはないのです。
けれども「ことば」というものは、日常生活の中で、日々、必要に応じて誰もが使用しているわけです。
そのために、多くの場合「俳句のことば」は、「日常のことば」として理解されてしまう、ということなのです。
うーん、ちょっと上手く書けないなぁ。
では「俳句のことば」と「日常のことば」は、どう違うのか。
ことばのある作用について、以前、このブログでも書いたことがあります。(こちら)
つまり、日常生活の中での「ことば」は、意味を限定するために使うわけです。
その何かを意味する「ことば」は、その「何か」以外の何ものでもないわけです。
当然です。
「りんご」という言葉が、「りんご」以外の、例えば「猫」というものを指し示していたら、ややこしいわけです。日常生活が混乱してしまう。
そして、「ことば」と、それによって作られた「文脈」の意味を価値付けすることで、僕たちの生活は成り立っているわけです。
「ねぇ、ご飯にする?お風呂にする?」
ま、いまどき、こんな会話をしている家庭があるとも思えないのですが…
ここでは「ご飯」と「お風呂」の意味は特定されていて、そのことによって、この言葉は、妻から夫へのメッセージとして機能する(少なくとも、機能すると期待されている)わけです。
こうした「日常のことば」として俳句が読まれることで、非常に多くの俳句がほとんど無意識に「意味」を「価値」としているのです。
これは「意味がある」から価値がある、とか、「意味がない」から価値がある、とか言うことを言っているのではありません。
そのような「意味がある」から「意味がない」までの「意味のグラデーション」を「価値」とみなしていた、ということなのです。
そして、僕自身も含めて、俳句は「ついつい」、こうした「意味のグラデーション」を読まれ、その価値を評価されてしまうわけです。
けれども、「音楽」の歌詞の意味が、「音楽」の価値でないように、「俳句」の価値もまた、「俳句」のことばの意味、ではないのではないか。
いや、いや。そうではないような「在り方」がないだろうか、ということなのです。
そして、以前も書いたように、「俳句」の価値は、その「ことば」の意味ではなく、俳句そのものが内在する「不可能性」にある、ということなのです。
で、この「不可能性」を出したとたんに、わけがわからなくなっちゃう。
ちなみに、もう一度書いておくと、この「不可能性」というのは「できないこと」であり、「わからないこと」であり、「知り得ないこと」なわけです。
それは、情報が足りなくて「わからない」というようなものではありません。
また、経験を積めば「できるようになる」というものでもないわけです。
※「不可能性」については、本ブログのこちらを参照ください。
「ことば」の意味に価値を見出す、と考えている人は、「俳句では、何でも詠める」ということについて、こう、考えがちです。
つまり、「俳句で何でも詠める、ということは、花鳥風月だけでなく、日常的な題材を読むことができる、ということである」と。
新興俳句運動のひとつの試みが「題材」の刷新であったことや(こことここ参照)、人間探求派の誕生に際して、楸邨が述べた「生活」という言葉を取りちがえた(と僕は考えているのですが)、いわゆる「厨房俳句」「生活俳句」の作者たちも、この「日常的な題材」を俳句に詠むことが、俳句の可能性を広げる、と考えたのは、このあたりに由来すると、僕は考えます。(新興俳句はそれによって「俳句の可能性」を「広げた」かどうかはともかく、「俳句の可能性」に光をあてた、という意味では評価に値するわけです)
けれども、もう一度、確認します。
「日常のことば」は、意味を限定するところに、その機能を発揮しているわけです。
「意味の限定」これが「日常」なのです。
とすると、
「俳句で何でも詠める、ということは、日常的な題材を読むことができる、ということである」
というのは、ちょっと怪しくなってきました。
つまり、俳句において、「ことば」の意味に価値を見出すことは、「日常」における「ことば」の限定された意味によって、俳句を作ったり読んだりする、ということなのではないか。
さて、疲れてきました。
で、実は、こうした状況の中から、ひとつの新しい俳句の傾向が生れてきました、と僕は思っています。。
それは、
「この句には、意味という価値はないんだよ」という「意味の意味」をメッセージとして付加する、いわゆるメタメッセージ付きの句です。
…と、ここまで書いて、疲れましたので、今日はここまで。
また、後日、つづきを書きます。たぶん。
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