2007/3/9 15:16
『不可能性』という価値 〜相対性俳句論(断片) 俳句
俳句において、「できないこと」には価値がある。
このことに合意することができれば、これまでの考え方のフレームを大きく変えることができる。
ここで言うところの「できないこと」を「不可能性」と呼ぶ。
この「不可能性」は、条件がそろわないから「できない」のでは、ない。
また「できないこと」が「できる」から価値があるのでも、ない。
「できること」に価値を見出すこと、俳句においてそれは、例えば「伝えられること(伝達可能性)」の価値であり、その「可能性」を実現できているかどうか、が俳句の価値であると、一般的に考えられている。
けれども、これは、俳句の価値を大きく誤解している、と僕は思う。
俳句が「音楽」や「彫刻」や「絵画」や「映画」などと決定的に異なっているのは、主として「言葉」を使う、というところにある。(詩や、小説、など文学一般に言えることだが…)
それは「言葉」という日常で利用しているものを「質料」として利用することである。
そして、そのような日常的な「言葉」については、誰もが一家言を持っている。
さらに「形式の短さ」が加わることで、俳句を「誰にでも作れて」「誰にでも語れる」という、「可能性」の文学として有らしめている。
かつて、桂信子が「証言・昭和の俳句」(角川選書)という本の中で、黛まどかの「東京ヘップバーン」の俳句に言及して、
「それもよろしいですよ。ストレスの解消になっていいと思いますけど、そういうのとこっちの俳句と一緒にされては困る。いちおう私たちは本当の俳句を守っていかねばいけない」
という発言をしたことは知られているけれども、ここで桂信子が言いたいことは、ごく平凡な次の一言に尽きる。
「俳句は簡単に作れるものではない」
これは、俳句における「不可能性」のことを言おうとしている。
(※このことが、単純に桂信子と黛まどかの優劣を示している、ということではない。誤解のないように言い添えておく)
具体的に、俳句を作ることが「困難である」ということを言っているのではない。実際、言葉を五七五につなげることは簡単であるし、それを評することも、至って簡単なことである。
それでも、俳句は「不可能性」を志向している。
このことが、俳句をあいだにおいて、作者と読者を大きく分け隔てている。
自然発生的に作者と読者が存在しているのではなく、俳句の「不可能性」が作者と読者とのあいだに境界線を生み出すのである。
前述のとおり『「不可能性」のある俳句をつくることが「できる」』ということに価値があるのではない。
逆である。
「不可能性」に対して「価値」がある、と合意したものだけが、一方で、その作者として表出し、もう一方で読者として表出する。
けれども、僕たちは、ついつい、この「不可能性」を「可能性」に還元して理解しようとしてしまいがちである。つまり、
「その不可能性は、どうすれば実現できるか」
このようにして「できるか」という「可能性」によって問い直されてしまう。
なぜ、このような「問い直し」がされてしまうか、と言うと、そこに「再現可能性」という価値を求めるからである。誰にでも「再現可能」な「方法」。
けれども、当初「不可能性」を実現しようとして蓄積された「方法」を実行しても、「不可能性」は「再現」することはできない。
なぜなら「再現可能」な「不可能性」は、もはや「不可能性」ではないからである。
どのような「方法」をもってしても、つかまえることのできないもの、それが「不可能性」である。
「再現性」がないこと、これが「不可能性」の特徴のひとつである。
つまり、「再現性」がないこと、これが「不可能性」の価値である。
たとえば「命」というものは、ひとつの「不可能性」を示している。
「命」の価値は、「再現性」がないところにある。
「なぜ、人を殺してはいけないのか」
それは「命」に価値があるからなのであり、それは「再現性」がない、という「不可能性」を根源とする。
仮に「命」を「再現」することができれば「人を殺してはいけない」という命題はその根拠を失う。(そうなると、もはや殺人はバーチャルゲームの世界の話になってしまう)
また「離婚の原因」の第一位は「性格の不一致」だという統計があるようだが、いわゆる「お互いを理解することができない」ということは、それ自体が「価値」なのであり、「お互いに理解できる」関係を求めることは、「可能性」に価値を見出すという、一般的な「誤解」なのである。
だから、最初に記述した一文、つまりは
「『不可能性』には価値がある」
ということに合意がとれることで、非常に一般化されている現在の考え方のフレームを大きく見直すことができるのだ、と思うのである。(もしかしたら昔は無意識のうちにこの合意がとれていた時代があるのかも知れない、ないのかも知れない)
俳句の価値は、この「不可能性」にある。
【関連コラム】
「シンポジウムで聞いてきたこと(1) 〜相対性俳句論(断片)」
「シンポジウムで聞いてきたこと(2) 〜相対性俳句論(断片)」
「俳句の不可能性について 〜相対性俳句論(断片)」
「天才性について 〜相対性俳句論(断片)」
「違和感 〜相対性俳句論(断片)」
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このことに合意することができれば、これまでの考え方のフレームを大きく変えることができる。
ここで言うところの「できないこと」を「不可能性」と呼ぶ。
この「不可能性」は、条件がそろわないから「できない」のでは、ない。
また「できないこと」が「できる」から価値があるのでも、ない。
「できること」に価値を見出すこと、俳句においてそれは、例えば「伝えられること(伝達可能性)」の価値であり、その「可能性」を実現できているかどうか、が俳句の価値であると、一般的に考えられている。
けれども、これは、俳句の価値を大きく誤解している、と僕は思う。
俳句が「音楽」や「彫刻」や「絵画」や「映画」などと決定的に異なっているのは、主として「言葉」を使う、というところにある。(詩や、小説、など文学一般に言えることだが…)
それは「言葉」という日常で利用しているものを「質料」として利用することである。
そして、そのような日常的な「言葉」については、誰もが一家言を持っている。
さらに「形式の短さ」が加わることで、俳句を「誰にでも作れて」「誰にでも語れる」という、「可能性」の文学として有らしめている。
かつて、桂信子が「証言・昭和の俳句」(角川選書)という本の中で、黛まどかの「東京ヘップバーン」の俳句に言及して、
「それもよろしいですよ。ストレスの解消になっていいと思いますけど、そういうのとこっちの俳句と一緒にされては困る。いちおう私たちは本当の俳句を守っていかねばいけない」
という発言をしたことは知られているけれども、ここで桂信子が言いたいことは、ごく平凡な次の一言に尽きる。
「俳句は簡単に作れるものではない」
これは、俳句における「不可能性」のことを言おうとしている。
(※このことが、単純に桂信子と黛まどかの優劣を示している、ということではない。誤解のないように言い添えておく)
具体的に、俳句を作ることが「困難である」ということを言っているのではない。実際、言葉を五七五につなげることは簡単であるし、それを評することも、至って簡単なことである。
それでも、俳句は「不可能性」を志向している。
このことが、俳句をあいだにおいて、作者と読者を大きく分け隔てている。
自然発生的に作者と読者が存在しているのではなく、俳句の「不可能性」が作者と読者とのあいだに境界線を生み出すのである。
前述のとおり『「不可能性」のある俳句をつくることが「できる」』ということに価値があるのではない。
逆である。
「不可能性」に対して「価値」がある、と合意したものだけが、一方で、その作者として表出し、もう一方で読者として表出する。
けれども、僕たちは、ついつい、この「不可能性」を「可能性」に還元して理解しようとしてしまいがちである。つまり、
「その不可能性は、どうすれば実現できるか」
このようにして「できるか」という「可能性」によって問い直されてしまう。
なぜ、このような「問い直し」がされてしまうか、と言うと、そこに「再現可能性」という価値を求めるからである。誰にでも「再現可能」な「方法」。
けれども、当初「不可能性」を実現しようとして蓄積された「方法」を実行しても、「不可能性」は「再現」することはできない。
なぜなら「再現可能」な「不可能性」は、もはや「不可能性」ではないからである。
どのような「方法」をもってしても、つかまえることのできないもの、それが「不可能性」である。
「再現性」がないこと、これが「不可能性」の特徴のひとつである。
つまり、「再現性」がないこと、これが「不可能性」の価値である。
たとえば「命」というものは、ひとつの「不可能性」を示している。
「命」の価値は、「再現性」がないところにある。
「なぜ、人を殺してはいけないのか」
それは「命」に価値があるからなのであり、それは「再現性」がない、という「不可能性」を根源とする。
仮に「命」を「再現」することができれば「人を殺してはいけない」という命題はその根拠を失う。(そうなると、もはや殺人はバーチャルゲームの世界の話になってしまう)
また「離婚の原因」の第一位は「性格の不一致」だという統計があるようだが、いわゆる「お互いを理解することができない」ということは、それ自体が「価値」なのであり、「お互いに理解できる」関係を求めることは、「可能性」に価値を見出すという、一般的な「誤解」なのである。
だから、最初に記述した一文、つまりは
「『不可能性』には価値がある」
ということに合意がとれることで、非常に一般化されている現在の考え方のフレームを大きく見直すことができるのだ、と思うのである。(もしかしたら昔は無意識のうちにこの合意がとれていた時代があるのかも知れない、ないのかも知れない)
俳句の価値は、この「不可能性」にある。
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