2007/3/7  21:50

絶対的にわからないもの 〜相対性俳句論(断片)  俳句

僕たちには「絶対的にわからない」ことがある。

…って言うか「絶対的にわからない」ということが、どうやら、ありそうだ、ということが、僕たちには、なんとなく「わかる」。

「明らかにわかる」ということを積み上げていっても、「自己」を抜け出すことはできない。

この「絶対的にわからない」ことがある、ということに気づいて、それに「対峙」することでしか抜け出せない限界がある。


俳句は、この「絶対的にわからない」何かを、まるでかつて所有していたように(実は、一度も所有したことはないのだけれど)、つまりは「欠落」してしまったもののように錯覚し、それを「希求」する。

「絶対的にわからない」ものを内在した俳句を、永遠に追い求めるかたちで、作者がいる。

その作者が追い求めることが「絶対的にわからない」読者もまた、作者が追い求める「絶対的にわからないもの」を追い求める。

そのようにして、「作り手」の求めるところを「読み手」も求める。


なぜ、俳句に「絶対的にわからない」ものが内在してしまうか、というと、「言葉」というものが、常に「言い過ぎてしまう」からなのである。


「言葉」と「事象」のあいだには、常に「差異」がある。

その「差異」は、決して「言葉」によって言い尽くすことができない。


そのようにして常に現れてくる「差異」。これが、俳句に「絶対的にわからない」ものを発生させる。

「言葉」によって、決して言い尽くすことができない「何か」。「言葉」から、永遠に逃げ続けてゆく「何か」。これが「絶対的にわからない」もの、である。


一般的に俳句は言葉の「意味」(あるいは文脈)を「価値」だと思い込んできた。
一方で「意味」以外のところに「価値」を見出すような俳句も作られてきた。

けれども、どちらも結局のところ定性的な価値を何かに見出すことで、俳句の「価値」を定義づけている。

けれども、俳句における「絶対的にわからないもの」は、「価値」があるのか、ないのかすら定かでなく、けれども「価値がある」ということを「絶対的に受け入れた者」だけが、それに接近することができるような「何か」である。

「絶対的に受け入れる」ということが、俳句にもたらすもの。

それは、おそらく、「時間」であり、言い換えれば「成長」である。

俳句作品と、その事後に現れる「成長」。


その俳句作品が存在する前には見えない…というか、見えない、ということにすら気づかない、ようなことが、俳句作品と出会うことで「何か」が見えない、ということに気づく、あるいは、今まで見えなかったし、今も見えないけれど、何かが「あるらしい」という温度のようなものを感じるようになる。

これが俳句を通しての「成長」である。

俳句が僕たちを魅了してやまないのは、この「成長」があるからなのかも知れない。


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