2006/10/5  0:53

俳句という師 〜相対性俳句論(断片)  俳句

あたりまえのことだけれど、俳句をつくる、ということは、俳句をつくる、ということである。

あ、何言ってるんだろう。

つまり、俳句を求める、ということである。

うーん、言い換えてみたが、うまくない・・・。


★★☆


さて、前回コラムの天気さんの「自己表現」について触れつつ、上田さんの「胃のかたち」でも、興味深い話が続いている。

「言い直し」(上田信治ブログ「胃のかたち」)

上田さんのブログは、僕の視点とは違う方向から俳句に迫っていて、これまた勉強させていただいている。

さて、

抑圧にあらがう(または初めから頭に無い)のが、俳句における若者的立場、抑圧を受け入れつつも、あまり言挙げしないのが中年的立場、と、そういうことが言いたかった。


という文章に関連して、ちょっとコメント。

ここで書かれている「若者的立場」と「中年的立場」の中間的な立場、というものが想定しうるのではないか・・・という話。


★★☆


冒頭にも書いたが、われわれは、「俳句をつくる」ことを通して「俳句を求め」ている。


上田さんの言う、俳句の「ある抑圧」は、この「俳句を求め」る私たちへの「俳句」からの要請と言い換えることができるかも知れない。

つまり、俳句がまるで我々の「師」のように、まるで「師」から与えられる「謎」と同じようなかたちで、俳句という「師」から与えられる「抑圧」という見方ができるのではないか。

とすると、その「抑圧」に対して「あらがう」のでもなく、無条件に「受け入れる」のでもなく、その「抑圧」が持っている本質的なメッセージを読み取り、それを「享受」するかたちで、我々の一部として、その「必要性」を引き受ける、ということが可能なのではないだろうか。

というより、そのような仕方でしか、俳句の「抑圧」と関わることは不可能ではないだろうか。

それは、「俳句への信頼」や「俳句の限界」の向こう側に、「俳句の無限性」というかたちで表出すると言うことができる。



★★☆

ま、もしかしたら、「若者的立場」から「中年的立場」へ移行するプロセスにすぎないのかも知れませんが・・・


上述の文章については、上田さんが、

そして二つの立場が対立するように書きましたが、そこがいちばんの書き損ない。実はどっちつかずが大切で、そこを止揚するのが「サービス精神」なんじゃないか、と。俳句の限界を見ないふりをするという「サービス」を想定して、そう思っていたんですが、まあ、この話もそのうち。

と書かれており、この「サービス」については、そのうち展開されるようなので、興味深く待ちたいと思っています。



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