2006/7/26  17:55

季語について考えるG 〜相対性俳句論(断片)  俳句

季語が「時間と空間」の枠組みとして機能するとき、それは同時に「挨拶」のように、読み手に呼びかける。

こうした呼びかけを、一般的にはメタコミュニケーションと呼ぶらしい。

絵画における額縁が「見てもらう」ためのものであり、電話における「もしもし」が、相手との会話の確立であるのと同様、季語は読み手との間に「時間と空間」を確認することで、句の内容に先立つように現れてくる。

この呼びかけを受け入れた者だけが、その句の読み手となることができる。

前回、季語の特殊性と一般性は、歳時記によってコンセンサスがとられていると書いた。

であるとすれば、「歳時記に掲載されていないのは、季語ではない」という意見はもっともである。

その季語は、コンセンサスが得られていないということになり、コンセンサスが得られていない言葉による呼びかけを拒否する、という態度も、それなりに正しいことになる。

けれども、考えてみたい。

それでも俳句は呼びかけてくる。

特殊性と一般性を同時に持った言葉で。それはたとえば「人名」であり、「地名」であり、「挨拶」であるかも知れない。

季語は「1句の中に1つ存在しなければならない」という規則があるから、そこに存在するのではない。

作り手と読み手の間のコミュニケーションを確立するために存在している。

一句の中に、時間と空間の枠組みを与えるために存在している。

おそらく「季語がなければ俳句ではない」という人たちは、概ね、読者であると同時に作者でもある人たちではないか。だから、「1句の中に1つ存在しなければならない」という規則に縛られているのではないか。

けれども、賢明な(あるいは純粋な)読み手とは、時間と空間の中で唯一無二の存在であろうと、俳句からの呼びかけに対して懸命に耳を澄ませている人たちのことを言うのかも知れない。






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