2006/3/24 14:57
俳壇について(2) 俳句
一般的に使われる「俳壇」という言葉は「俳句の本流」というニュアンスが強く、上田さんの言うように、『「壇」とは、つまるところ「評価の装置」である。』とすれば、特に「公式な評価機関」という意味で使われることが多いように思います。(具体的には、総合誌や賞・顕彰といった類のものですね)
けれど、個人としては、隣にいる人を大事にするしかなく、そうした小さな関係の中にも、「非公式な評価」というはたらきを持っているわけです。つまり、俳句に関る以上(おおげさに言えば、他人と関る以上)、公式にも非公式にも「評価」という風の中に立たざるを得ないわけです。
いわば、公式・非公式に関らず、そこには「俳壇」があらわれてくるのだと思います。ここで言う「俳壇」は有機的な、化け物のような「俳壇」ではなく、もっとおおらかで空気のようなものだと、僕は思います。そこには僕も天気さんも上田さんも、松尾芭蕉も高浜虚子も、まあ含まれてしまうのでしょうね。そこまで広義の意味で「俳壇」という言葉は使われた方が、アクがなくていいな。「花壇」ぐらいのニュアンスですね。
「公式な評価機関」を狭義の「俳壇」と呼ぶとすれば、正直なところ僕の立場(?)としてはニュートラルな状態です。それは、とても人為的で政治的で、必ずしも作品主体ではなく、けれども決して価値のない作品だけでは立ち止まれる場所ではなく、不純なように感じるが、ある意味とても純粋だということもできるかも知れません。それをありがたかることもないし、批判することもないです。
ただ、どうも毒々しい感じがしますね。ちょっと怖い。しかもそうした機関は絶対的でない、ということを多くの人が経験上知っているということで、冷静な人は結構シラけて眺めているんではないでしょうかね。
むしろ、僕個人としては、広義の意味での「俳壇」において、@隣の人を大切にすることA主体的であること、の二点を大事にしたいところです。
ちなみに狭義の「俳壇」というのは、あるいみ人間模様としてみるととても興味深いです。このあたりのこと、もうちょっと書きます。(つづく)
0
けれど、個人としては、隣にいる人を大事にするしかなく、そうした小さな関係の中にも、「非公式な評価」というはたらきを持っているわけです。つまり、俳句に関る以上(おおげさに言えば、他人と関る以上)、公式にも非公式にも「評価」という風の中に立たざるを得ないわけです。
いわば、公式・非公式に関らず、そこには「俳壇」があらわれてくるのだと思います。ここで言う「俳壇」は有機的な、化け物のような「俳壇」ではなく、もっとおおらかで空気のようなものだと、僕は思います。そこには僕も天気さんも上田さんも、松尾芭蕉も高浜虚子も、まあ含まれてしまうのでしょうね。そこまで広義の意味で「俳壇」という言葉は使われた方が、アクがなくていいな。「花壇」ぐらいのニュアンスですね。
「公式な評価機関」を狭義の「俳壇」と呼ぶとすれば、正直なところ僕の立場(?)としてはニュートラルな状態です。それは、とても人為的で政治的で、必ずしも作品主体ではなく、けれども決して価値のない作品だけでは立ち止まれる場所ではなく、不純なように感じるが、ある意味とても純粋だということもできるかも知れません。それをありがたかることもないし、批判することもないです。
ただ、どうも毒々しい感じがしますね。ちょっと怖い。しかもそうした機関は絶対的でない、ということを多くの人が経験上知っているということで、冷静な人は結構シラけて眺めているんではないでしょうかね。
むしろ、僕個人としては、広義の意味での「俳壇」において、@隣の人を大切にすることA主体的であること、の二点を大事にしたいところです。
ちなみに狭義の「俳壇」というのは、あるいみ人間模様としてみるととても興味深いです。このあたりのこと、もうちょっと書きます。(つづく)
0