おしらせ 俳句
おしらせ 俳句
第115回現代俳句協会青年部勉強会
俳人とインターネット
30 年前、車が飛行し、テレビは立体映像、月への定期便が運行されるような21世紀を誰もが夢想していました。しかし、携帯電話やインターネットの普及を予知した人はいませんでした。俳人が「インターネットと俳句」について薔薇色の未来を語るとき、似たような過ちを犯してはいないでしょうか。正確な知識を持たない人ほどふわふわとした「可能性」を語りがちです。普及して十数年の間、俳人たちがインターネットとどのように関わってきたか、現在どのように活用しているか、その限界や特徴を整理したうえで、はじめて未来に目を向けることができるはず。積極的にインターネットを活用している俳人をゲストにお迎えし、実践的なお話を伺う予定です。
ゲスト:上田信治氏・大畑等氏・小野裕三氏
司 会:中村安伸
日 時:平成21年12月12日(土)14:00〜16:30(予定)
場 所:現代俳句協会分室
(文京区湯島3-10-10吉澤・川辺ビル4階)
※終了後に懇親会を予定しています
参加費 参加費500円、定員30名(受付順)
お申し込み、お問い合わせなど 現代俳句協会青年部
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
<E-mail> genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
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俳人とインターネット
30 年前、車が飛行し、テレビは立体映像、月への定期便が運行されるような21世紀を誰もが夢想していました。しかし、携帯電話やインターネットの普及を予知した人はいませんでした。俳人が「インターネットと俳句」について薔薇色の未来を語るとき、似たような過ちを犯してはいないでしょうか。正確な知識を持たない人ほどふわふわとした「可能性」を語りがちです。普及して十数年の間、俳人たちがインターネットとどのように関わってきたか、現在どのように活用しているか、その限界や特徴を整理したうえで、はじめて未来に目を向けることができるはず。積極的にインターネットを活用している俳人をゲストにお迎えし、実践的なお話を伺う予定です。
ゲスト:上田信治氏・大畑等氏・小野裕三氏
司 会:中村安伸
日 時:平成21年12月12日(土)14:00〜16:30(予定)
場 所:現代俳句協会分室
(文京区湯島3-10-10吉澤・川辺ビル4階)
※終了後に懇親会を予定しています
参加費 参加費500円、定員30名(受付順)
お申し込み、お問い合わせなど 現代俳句協会青年部
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
<E-mail> genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
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おしらせ 俳句
2009/11/20 2:42
ものを見ること/関心 〜相対性俳句論(断片) 俳句
私たちは「関心」をもって、ものを見る。
「関心」があるから、ものが見える。
逆に言えば、「ものを見る」ということは私の「関心」を証明することに他ならない。
中でも、じっと注意を払って見ていることで最初は気付かなかったことに気付くことがある、という意見については、田島さんが「さっき受付のテーブルに置いてあったものを思い出して句を作れと言われても難しい。それは、我々がテーブルに特に注意を払っていなかったからだ」と擁護していたのが、具体的で説得力があると感じた。(写生 「超える」ための方法
「現代俳句協会青年部・第114回勉強会」レポート) 山口優夢
私たちの「関心」が、ものを見ることを支配しているのだとすれば、仮に私が受付のテーブルの上に「関心」を示してものを見たとき、私はそのテーブルの上のものを「確かに」見ている、と言うことができるだろうか。
つまり、私がどのように「正しく」ものを見ようと努力しても、おのずとその「関心」の足りなさから、私には「見えていないもの」がないだろうか。
逆に「関心」がありすぎるために、「余計な」ものを見過ぎていることはないだろうか。
つまり「見る」ということは、そのような「過不足」を常に孕んでいるのだ。
私たちは、「過不足」なく、「正しく」ものを見ることはできない。そのような「正しい」状態がまず存在して、その後に私たちの「歪んだ」ものの見方が現れるのではないのだ。
私たちは常に何かを見過ごし、何かを見過ぎてしまう。
そのような「正しい」ものの見え方、というゼロ地点から「過不足」というプラスとマイナスの方向への振れ幅、それがつまり、私たちの「生」そのものだ、ということだ。
私たちが生きている、ということに「何も意味はない」のだというゼロ地点が仮にあるとするならば、その意味の無い「生」を、幸福と不幸というプラス/マイナスの方向に引き裂くのは、私たちのものの見方が、そのような構造になっているからだ、と言うことができるだろう。このゼロ地点と、私たちが「ものを見る」ときの「過不足」、この差異こそが私たちの欲望を支えている。
俳句が、ものを見る、ということで、ものを見る、ということが私たちの生きることへの「関心」を支配しているのだとすれば、俳句が私たちの生きることそのものだ、ということが分かるだろう。
生きていることが、俳句の対象や題材なのではなく、生きる、ということの枠組みそのものが俳句における「ものを見る」という行為を支えているのだ。
したがってラカン的な視点からすると、〈現実界〉的なものとしての対象は結局のところある種の限界にしかすぎない。われわれはそれを追い越し、追い抜くことはできるが、捕まえることはできない。これが、アキレスと亀という古典的な逆説のラカン的読解である。もちろんアキレスは亀を追い抜くことはできるが、亀に追いつき、捕まえることはできないのである。これはまた有名なブレヒト『三文オペラ』の幸福の逆説に似ている。あまり必死になって幸福を追いかけちゃだめだ、幸福を追い越して、後ろに置いてきてしまうかもしれないから……。これこそがラカンのいう〈現実界〉だ。それはつねにわれわれの手から擦り抜けるある種の限界であり、われわれはつねに早すぎるか、遅すぎるか、そのどちらかだ。(『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳 河出書房新社)
ラカンによれば、アキレウスと亀のパラドックスは主体と彼の欲望の対象との関係をあらわしている。ポルノグラフティもまた、このパラドックスの一つのヴァリエーションにすぎないのである。当然、アキレウスは簡単に亀を追い越し、亀を後ろに置き去りにすることができる。問題は、アキレウスは亀と並び、亀といっしょになることができないということである。主体はつねに遅すぎるか速すぎて、自分の欲望の対象と同じペースになることができない。「正常な」ラヴストーリーでは、到達しえない/禁じられた対象──性行為──に接近はできるが、手に入れることはできない。この対象は、隠されたもの、示唆されたもの、「見せかけ」としてしか存在しない。「それを見せた」とたん、その魅力は消え失せる。われわれはそれを「通り過ぎて」しまったのだ。われわれは、崇高な〈物自体〉ではなく、卑俗で呻き声をあげている姦淫に突き当たる。(『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳 青土社)
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「関心」があるから、ものが見える。
逆に言えば、「ものを見る」ということは私の「関心」を証明することに他ならない。
中でも、じっと注意を払って見ていることで最初は気付かなかったことに気付くことがある、という意見については、田島さんが「さっき受付のテーブルに置いてあったものを思い出して句を作れと言われても難しい。それは、我々がテーブルに特に注意を払っていなかったからだ」と擁護していたのが、具体的で説得力があると感じた。(写生 「超える」ための方法
「現代俳句協会青年部・第114回勉強会」レポート) 山口優夢
私たちの「関心」が、ものを見ることを支配しているのだとすれば、仮に私が受付のテーブルの上に「関心」を示してものを見たとき、私はそのテーブルの上のものを「確かに」見ている、と言うことができるだろうか。
つまり、私がどのように「正しく」ものを見ようと努力しても、おのずとその「関心」の足りなさから、私には「見えていないもの」がないだろうか。
逆に「関心」がありすぎるために、「余計な」ものを見過ぎていることはないだろうか。
つまり「見る」ということは、そのような「過不足」を常に孕んでいるのだ。
私たちは、「過不足」なく、「正しく」ものを見ることはできない。そのような「正しい」状態がまず存在して、その後に私たちの「歪んだ」ものの見方が現れるのではないのだ。
私たちは常に何かを見過ごし、何かを見過ぎてしまう。
そのような「正しい」ものの見え方、というゼロ地点から「過不足」というプラスとマイナスの方向への振れ幅、それがつまり、私たちの「生」そのものだ、ということだ。
私たちが生きている、ということに「何も意味はない」のだというゼロ地点が仮にあるとするならば、その意味の無い「生」を、幸福と不幸というプラス/マイナスの方向に引き裂くのは、私たちのものの見方が、そのような構造になっているからだ、と言うことができるだろう。このゼロ地点と、私たちが「ものを見る」ときの「過不足」、この差異こそが私たちの欲望を支えている。
俳句が、ものを見る、ということで、ものを見る、ということが私たちの生きることへの「関心」を支配しているのだとすれば、俳句が私たちの生きることそのものだ、ということが分かるだろう。
生きていることが、俳句の対象や題材なのではなく、生きる、ということの枠組みそのものが俳句における「ものを見る」という行為を支えているのだ。
したがってラカン的な視点からすると、〈現実界〉的なものとしての対象は結局のところある種の限界にしかすぎない。われわれはそれを追い越し、追い抜くことはできるが、捕まえることはできない。これが、アキレスと亀という古典的な逆説のラカン的読解である。もちろんアキレスは亀を追い抜くことはできるが、亀に追いつき、捕まえることはできないのである。これはまた有名なブレヒト『三文オペラ』の幸福の逆説に似ている。あまり必死になって幸福を追いかけちゃだめだ、幸福を追い越して、後ろに置いてきてしまうかもしれないから……。これこそがラカンのいう〈現実界〉だ。それはつねにわれわれの手から擦り抜けるある種の限界であり、われわれはつねに早すぎるか、遅すぎるか、そのどちらかだ。(『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳 河出書房新社)
ラカンによれば、アキレウスと亀のパラドックスは主体と彼の欲望の対象との関係をあらわしている。ポルノグラフティもまた、このパラドックスの一つのヴァリエーションにすぎないのである。当然、アキレウスは簡単に亀を追い越し、亀を後ろに置き去りにすることができる。問題は、アキレウスは亀と並び、亀といっしょになることができないということである。主体はつねに遅すぎるか速すぎて、自分の欲望の対象と同じペースになることができない。「正常な」ラヴストーリーでは、到達しえない/禁じられた対象──性行為──に接近はできるが、手に入れることはできない。この対象は、隠されたもの、示唆されたもの、「見せかけ」としてしか存在しない。「それを見せた」とたん、その魅力は消え失せる。われわれはそれを「通り過ぎて」しまったのだ。われわれは、崇高な〈物自体〉ではなく、卑俗で呻き声をあげている姦淫に突き当たる。(『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳 青土社)
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2009/11/19 3:17
白鳥 たじまの俳句
2009/11/19 2:10
死ぬほど 〜相対性俳句論(断片) 俳句
世の中には、
死ぬほど忙しい人と、
忙しすぎて死ぬ人
がいる。
前者にとって、死ぬことは比喩でしかないのだけれど、
後者にとっては、もう、それが世界のすべてであるか、のような現実としての死なのだろう。
はたから見れば「死ぬことなど、ないのに」と思うようなことが、
彼の立ち位置から見ると、もう、それだけで世界が埋め尽くされている、ということに違いない。
ものを見る、とはそういうことだ。
相変わらず、仕事のほうが死ぬほど忙しい…
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死ぬほど忙しい人と、
忙しすぎて死ぬ人
がいる。
前者にとって、死ぬことは比喩でしかないのだけれど、
後者にとっては、もう、それが世界のすべてであるか、のような現実としての死なのだろう。
はたから見れば「死ぬことなど、ないのに」と思うようなことが、
彼の立ち位置から見ると、もう、それだけで世界が埋め尽くされている、ということに違いない。
ものを見る、とはそういうことだ。
相変わらず、仕事のほうが死ぬほど忙しい…
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2009/11/18 1:44
〈新しさ〉とは何か 〜相対性俳句論(断片) 俳句
第113回現代俳句協会青年部勉強会行動する子規―革新の力学― 報告
〈新しさ〉とは何か 〜子規の俳句革新について
俳句における〈新しさ〉とは何か。
これは長い間「老人文学」と呼ばれている俳句にとって常に「古くて新しい」論件である。
ここで確認すべきことは、それが作品上の「主題化」された言葉の相対的な「新しさ」のことではない、という点だ。言うまでもないことだが、「携帯電話」という言葉を使った俳句が「新しい」わけではない。都会的な言葉を使った作品が、花鳥風月を示す言葉を使った作品よりも「新しい」のではないし、その逆もまた然りである。相対化された時間軸のなかで、時間的に「古い」俳句と「新しい」俳句があるのではないのだ。
また「新しさ」とは「時事性」「社会性」「思想性」のことでもない。むしろそのような「新しさ」を根拠付けることのできる「前提」を持たないということが、〈新しさ〉の重要な要素だということだ。俳句の〈新しさ〉は、「古さ」との間に境界線を持つような相対的な概念ではないということである。
俳句における〈新しさ〉について考えるとき、常に念頭におくべきひとりの人物がいる。──正岡子規、である。子規について思いを馳せるとき、俳句の〈新しさ〉についてのひとつの観点が見えてくる。それは「〈新しさ〉とは実体を持たない身振りである」ということだ。
私たちが子規の「俳句革新」について、「具体的に何をどのように革新したのか」とか「革新を証明する子規の作品はどれか」などと問うのは、子規の「俳句革新」が何か「革新」と呼ぶべき「実体」を持つ、という前提に立つ点で、〈新しさ〉について完全に見誤っている。
子規が何か実体のある「俳句革新」を行った、のではなく、俳句について子規が行った「実体を持たない身振り」を、その関係者たちが「俳句革新」として理解したということなのである。
虚子や碧梧桐にとって子規が俳句革新者である理由は、子規の具体的な思想や作品にあるのではなく、それを行ったのが「子規だから」なのである。
なぜ「子規だから」なのか。
それは、虚子や碧梧桐にとって子規は「〈新しさ〉を示すために必要な、実体を持たない身振り」を知ると想定された唯一の人物だったからである。
そのような「知ると想定された主体」のことを、私たちは「師」と呼ぶのだ。
若き日の子規は、この「〈新しさ〉を示すために必要な、実体を持たない身振り」を繰り返した。今回の勉強会では、そんな若き日の子規に焦点をあてた。そして私たちが知る「俳句革新者」としての子規は、そのような若き日の子規の延長上に、いまもいる。
(現代俳句11月号掲載)
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〈新しさ〉とは何か 〜子規の俳句革新について
俳句における〈新しさ〉とは何か。
これは長い間「老人文学」と呼ばれている俳句にとって常に「古くて新しい」論件である。
ここで確認すべきことは、それが作品上の「主題化」された言葉の相対的な「新しさ」のことではない、という点だ。言うまでもないことだが、「携帯電話」という言葉を使った俳句が「新しい」わけではない。都会的な言葉を使った作品が、花鳥風月を示す言葉を使った作品よりも「新しい」のではないし、その逆もまた然りである。相対化された時間軸のなかで、時間的に「古い」俳句と「新しい」俳句があるのではないのだ。
また「新しさ」とは「時事性」「社会性」「思想性」のことでもない。むしろそのような「新しさ」を根拠付けることのできる「前提」を持たないということが、〈新しさ〉の重要な要素だということだ。俳句の〈新しさ〉は、「古さ」との間に境界線を持つような相対的な概念ではないということである。
俳句における〈新しさ〉について考えるとき、常に念頭におくべきひとりの人物がいる。──正岡子規、である。子規について思いを馳せるとき、俳句の〈新しさ〉についてのひとつの観点が見えてくる。それは「〈新しさ〉とは実体を持たない身振りである」ということだ。
私たちが子規の「俳句革新」について、「具体的に何をどのように革新したのか」とか「革新を証明する子規の作品はどれか」などと問うのは、子規の「俳句革新」が何か「革新」と呼ぶべき「実体」を持つ、という前提に立つ点で、〈新しさ〉について完全に見誤っている。
子規が何か実体のある「俳句革新」を行った、のではなく、俳句について子規が行った「実体を持たない身振り」を、その関係者たちが「俳句革新」として理解したということなのである。
虚子や碧梧桐にとって子規が俳句革新者である理由は、子規の具体的な思想や作品にあるのではなく、それを行ったのが「子規だから」なのである。
なぜ「子規だから」なのか。
それは、虚子や碧梧桐にとって子規は「〈新しさ〉を示すために必要な、実体を持たない身振り」を知ると想定された唯一の人物だったからである。
そのような「知ると想定された主体」のことを、私たちは「師」と呼ぶのだ。
若き日の子規は、この「〈新しさ〉を示すために必要な、実体を持たない身振り」を繰り返した。今回の勉強会では、そんな若き日の子規に焦点をあてた。そして私たちが知る「俳句革新者」としての子規は、そのような若き日の子規の延長上に、いまもいる。
(現代俳句11月号掲載)
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2009/11/18 1:35
宿泊 俳句
昨日は、仕事で会社に泊まりました。
オフィスで寝ていたら、朝方、めっちゃ寒くて眼が覚めました。
これからの時期、オフィスに泊まるのも考えものです。
というわけで、丸二日はたらき今日も終電で帰ってきたのでした。
白鳥や今日もかがやく終電来 たじま
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オフィスで寝ていたら、朝方、めっちゃ寒くて眼が覚めました。
これからの時期、オフィスに泊まるのも考えものです。
というわけで、丸二日はたらき今日も終電で帰ってきたのでした。
白鳥や今日もかがやく終電来 たじま
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