おしらせ  俳句

『新撰21』(11月下旬刊)


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2009/11/5  2:46

苦痛 〜相対性俳句論(断片)  俳句

この苦しみや戸惑いが、例えば何かの病によるものだとすれば、ずっと気が楽になる。

病であれば、治療すればよいからだ。

病の向こう側に、正常な精神の有り様があって、そのような健康で明るい世界が、僕の視線と無関係に存在するのであれば、僕たちが「苦しみ」と呼ぶものはそれほど深いものではなくなる。

そうではない。

いま自分が見ている世界が、すべてなのだ。

真に問題なのは、

自分を最も苦しめているものが、自分自身を成立させている唯一のものだ、ということだ。

この苦しみを見つめている、僕の視線は僕だけのもので、いたってまともなのだ。

この苦痛を排除することができるのだろうか。仮に排除できたとして、それによって欠落した穴を、何が埋めてくれるのだろう。

僕が見つめている苦しみは、対象ではなく、僕の視線そのものなのだろう。
だとすれば、雨雲の向うは、どしゃぶりかも知れないじゃないか。

世界がどしゃぶりなのかどうかは、僕の視線にかかっている。

倫理的で、享楽的でありたいと、願う。

そう願うから、迷っているのだ。

この苦しみの前で、僕は悩んでいるのではない、倫理的であるために、享楽的であるために、果てしなく迷っているのである。



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2009/10/29  3:25

たまには検索キーワードを見てみたりする  俳句

この1ヶ月ほどの、本ブログにおける検索ワード。

神野紗希
俳句
ブログ
神野
矢野玲奈
紗希
たじま屋
健康
若者と俳句
悲しみの俳句
俳句論
坂本龍馬
俳句季語論
阪西敦子
俳句の有名人
たまさんのエロ画像
エロ
挨拶
読み方
本文

中村草田男
切れとは
若者の俳句観
たじま
芭蕉の人生
戦争想望俳句
俳句における批評とは
芭蕉入門
仙田洋子

なんか俳句っぽいキーワードが多いね。
「たまさんのエロ画像」「エロ」で検索して、うちのブログにたどり着いた方は、お気の毒です。

俳人の名前が多いなかで、幕末の志士「坂本龍馬」が健闘している。
健闘したからどうだ、というわけではないですが。

あれ?それとも龍馬も俳句やってたとか?

まさかね。

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2009/10/28  2:19

手に負えないもの 〜相対性俳句論(断片)  俳句

俳句も仕事も「手に負えないもの」を扱っている。

だから、どんなに理路整然としていても、そのような「手に負えないもの」に対峙していない言説は、ほとんど必要ないに等しい。

「手に負えないもの」が厄介なのは、それが「手に負えないもの」であることを、経験や知識で判断することができない、ということだ。

そのような判断の外に位置しているからこそ、それは「手に負えないもの」なのだ。

俳句についてのさまざまな言説について、やはり「問題の立て方が違う」と感じることが多いのは、ある種の命題について、つまり私たちが対峙すべき問題を、私たち自身が選択できる、というような視点から設定された「解決可能な」あるいは「議論可能な」問題として提示されていることがほとんどだということだ。

「手に負えないもの」とは、文字通り「手に負えないもの」なのであり、なにかぐうの音も出ないような、激しい苦痛に近いものだ。

俳句について語ることばが、常に俳句を目的語としてしまうことの難しさ。「俳句で」「俳句を」「俳句について」というかたちで、俳句を「対象」として語ることの違和感。(その違和感を説明するために、また「俳句について」と書かざるを得ないということ・・・)

言うまでもなく、俳句は「対象」ではなく、世界を「対象化」するための一つの視線であり、視点であり、眼であり、眼球であり、網膜なのだ。

だから俳句は対象化不能な、ひとつの「近さ」である。


だれも、「あなた」に俳句を背負うことを求めてなんかいないんだよ。

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2009/10/24  2:42

ネガティブ  つれづれ

今日は、友人たちと食事をする約束をしていたのに、仕事が火をふいて行くことができなかった。

結局、家に帰宅したのが夜中の2時すぎ。

明日も仕事になってしまいました。

仕方のないことだけど、ブルーです。


ときどき無償に消えてしまいたい気分になる。
ほんとに、出来の悪い人間だ、俺。

こうして自虐的なブログを書いて、自分を慰めている。あー、嫌だ。

なんだか、このところひどい寝不足のせいか、やたらとネガティブな気分。

よくないなぁ。


なに、週明けには気分が戻ってくるさ。きっと。


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2009/10/23  1:36

また、写生ですかG 〜相対性俳句論(断片)  俳句

このところ、仕事で終電つづきで眠くてしょうがない。

眠いとイライラするのは、僕だけか。

未熟者の僕は、ついイライラしてしまい、嫌な感じをかもし出していると思う。たぶん。ごめん。

先週末の現代俳句協会青年部の勉強会は、準備不足だった割には内容の濃いものになったと思う。問題の核心に触れた。

来れなかった方は、残念。

「写生」というものを、シンプルな技術論であるとか、けったいな人生論であるとか、不可解な異化作用であるとか、いろいろと見方はあると思うが、俳句作家にとって、それは、ひとつの経験ということができるだろう。

おそらく「見る」という行為が、「見る」主体の視線を追い越してしまうことがある、ということなのだ。

つまり、見ているもの以上のものが見えてしまう

このような物言いが、根拠のない精神論に聴こえてしまうかも知れないが、そうではない。

私たちが日常生活のなかで過ごしている、「原因と結果」が逆転する出来事。それはまさに、それが時間的な出来事であることを示している。

「主客の逆転」。「見ている私」が「見ている対象」から「見つめ返される」ということ。

そのような立場に立つ(立ってしまう)とき、あたかもこれまでの日常がかすんで消えてしまい、これまで「染み」のようなものに思っていた些細な「異物」が活き活きと意味を持ち出すのである。

「写生」を行う私という主体は、無限の領域から見れば、ひとつ限界であり消すことのできない「からだ」だ。

その「限界」近くでかろうじて生きている、ということは、曖昧な人生論でもなければ、根拠のない精神論でもなく、非常に具体的な「態度」とも呼べるものである。

その意味では、波多野爽波が言うように、俳句は「スポーツ」に近いものかも知れない。

以上のような「写生」における出来事について考えるときに、爽波の「俳句スポーツ説」には、ひとつの大きな問題があると思う(それについては、勉強会で述べた)のだが、それについてはまた改めて整理したいと考えている。

いずれにせよ、現代俳句協会青年部の勉強会は、これから徐々に面白くなってきそうな予感がしてきた…ような気がするのは、僕だけなのかなぁ…
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2009/10/21  9:02

マジック  俳句

マジックで塗りつぶしたような平日を暮らしている…

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2009/10/15  9:32

メモ2  俳句

他人が見ないところを見る、ということと、他人に見えないものが見えるということは、本質的に違う。

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