2016/11/14  0:17

近況 2016年11月  俳句

すいません。近況を整理します。

このところ執筆したもので、ほぼ確定しているものです。

関係者のみなさまにはいろいろご迷惑おかけしています。多謝。


<発売中>

■俳句αあるふぁ 2016.12-2017.01月号

 ブックレビューを担当しています。今月はいつもの倍の10冊をとりあげました。


■現代詩手帖11月号 俳句時評「俳句のしるしJ 新興俳句と〈新しさ〉について」

 『定本三橋敏雄全集』をとりあげています。


■オルガン7号(2016年秋号)

 「鳥のからだ」13句/テーマ詠・レストラン 「すごい肉厚」7句

 特集は連句「沼を背に」の巻  浅沼璞さんの捌きで連句に挑戦しました。


<予定>

■現代詩手帖 12月号

 1年の総括として20枚書きました。ヘビーでした。


■俳句四季 12月号

 オルガン7号からの連句第2段となります。


■角川『俳句』 12月号

 エッセイ「男のドラマ女のドラマ」


■角川 俳句年鑑

 2016年の初めに担当した鼎談の振り返りの文章が載る予定。


■俳誌『鷹』 俳句逍遥

 来年の1月号から半年担当します。


<その他・これから書く予定のものと個人的なもの>

■週刊俳句 11月19日号

■カラフルな俳句のための私的セミネール(メルマガ) 毎月28日配信
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タグ: 俳句 作品 文学

2016/11/4  0:51

課題  俳句

人工知能が「考える」ことと、人間(特に「私」)が「考える」こととの間に本質的な違いがあるなどと、何を根拠に言えるのだろうか。

我々にとっての現代的な課題とは、むしろ、そのような「無根拠さ」の意味について考えることに他ならない。


言いかえれば、現代人が抱える最も大きな課題は、

「人間であること」と「人間的であることの断絶」にある。


俳句だって同じだ。


問題は、その「断絶」をいかに「再接続するか」ではなく、その「断絶」からいかに新しい意味を汲みあげるか、だろう。







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タグ: 俳句 人工知能 文学

2016/2/29  22:19

信じてはいない、けれど  俳句


たとえば、ある種の形式や法に何かしらの本質があるという見方は、大事なものを見落としている。

しかし一方で、形式が過不足なく言いたいことを伝える、という見方もまた対象のもつ「想像的な領域」のことを忘れている。

有季定型であれば俳句であって、有季定型でなければ俳句ではない、と一辺倒に言うことは俳句のもっている俳句以上のちからを失う。しかし、俳句には季語や定型を無視してしまえるほどに「言うべきものがある」というのもまた大きな錯誤である、といえる。

法律にさえ従っていれば、何をしてもいいのだ、という政治家も、現実が都合に合わないからといっておいそれと法律を変えようとする政治家も、いずれも信用がおけない。

見るべきものは、そのあいだにあるのだ。

いわば「信じていないけれど、信じているふりをする」という振る舞いのなかに。


ニールス・ボーアは、「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインに対し、的確な答を返した(「何をすべきかを神に命令するな」)が、彼はまた、物神崇拝的な信仰否認がいかにしてイデオロギー的に機能するかについての完璧な例を提供してくれる。ボーアの家の扉には蹄鉄がついていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないと言った。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです」。(「ラカンはこう読め!」スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳 紀伊國屋書店)





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タグ: 俳句 ジジェク 文学

2016/2/22  0:15

俳句的「倒錯」  俳句

カント的主体はその倫理的な地位を保つために、その懐疑に、その不確実性に、死に物狂いでしがみつくのである。ここで念頭においているのは、一度〈理想〉が現実のものになってしまったら、生の緊張はすべて失われ、その後われわれに残されているものといえば、無気力で退屈な日々ばかり、というような月並み話ではない。はるかにもっと厳密なことが問題になっているのだ。一度「病理的な」染みが消えうせるや、普遍は個別へと暴落してしまうのである。まさにこれこそが、サド的な倒錯において起きていることであり、この理由からサドの倒錯はカントの強迫的な不確実性〔確信の欠如〕を絶対的確実性〔確信〕へと転倒しているといえる。倒錯者は、自分が何をしているか、〈他者〉が自分に何を望んでいるのかを完璧に知っている。なぜなら、彼は自分を〈他者〉の〈享楽への意志〉の道具−対象と捉えているからだ。正確にこの意味で、サドはカントの真理を上演してみせる。一切の強迫的懐疑から自由な倫理的行為をお望みか?それなら、ほら、ここにサドの倒錯がある!(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク ちくま学芸文庫)


俳句的「倒錯」というものがあるとすれば、これだ。いわゆる「教えたがる俳人たち」は、この倒錯的な意味で「俳句の代理人」である。彼らを支えているのは「私利私欲」ではなく、「俳句」が自分自身にそれを求めている、という「使命感」に他ならない。

その「使命感」のなかでは、俳句は「絶対的確実性〔確信〕」を基礎とし、首尾一貫した「はじめとおわり」のある超越的他者の姿をしている。





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タグ: 俳句 ジジェク 文学

2016/2/18  20:53

脅かされる俳句  俳句

抽象的に接近したとき、「問題」として現われる〔見える〕ものは、実際にはわれわれがそのために努力している、まったく「問題のない」、「正常な」事物の状態そのものの必然的な構成要素なのだということである。「問題のない」無垢な状態などというものは、「問題」に先立って存在することはけっしてない。われわれが「問題」から逃れるその瞬間、われわれはまさに自分が救おうと思っていたものを、「問題」によって脅かされていると感じていたものを失うのである。(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク ちくま学芸文庫)


ここでジジェクが言う「問題」と呼ぶものは俳句のなかにも顕れる。

注意しなければならないのは、俳句表現に完全な形式主義を持ち込むと、その洗練された技術は俳句が纏うこの「問題」さえも洗い流してしまうということだ。

俳句を読んで発散するものは、この「問題」が生みだす想像的な領域があるからだ。

俳句の本来的な技術とはこの「問題」を五七五のなかにいかに維持するか、ということに他ならない。


唯一の解決は、それゆえこういうものになる。われわれをあなたがたの「解決」に巻き込まないでくれ、そうすればおのずと問題は消滅する!(同書)




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タグ: 俳句 ジジェク 文学



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