2016/2/29  22:19

信じてはいない、けれど  俳句


たとえば、ある種の形式や法に何かしらの本質があるという見方は、大事なものを見落としている。

しかし一方で、形式が過不足なく言いたいことを伝える、という見方もまた対象のもつ「想像的な領域」のことを忘れている。

有季定型であれば俳句であって、有季定型でなければ俳句ではない、と一辺倒に言うことは俳句のもっている俳句以上のちからを失う。しかし、俳句には季語や定型を無視してしまえるほどに「言うべきものがある」というのもまた大きな錯誤である、といえる。

法律にさえ従っていれば、何をしてもいいのだ、という政治家も、現実が都合に合わないからといっておいそれと法律を変えようとする政治家も、いずれも信用がおけない。

見るべきものは、そのあいだにあるのだ。

いわば「信じていないけれど、信じているふりをする」という振る舞いのなかに。


ニールス・ボーアは、「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインに対し、的確な答を返した(「何をすべきかを神に命令するな」)が、彼はまた、物神崇拝的な信仰否認がいかにしてイデオロギー的に機能するかについての完璧な例を提供してくれる。ボーアの家の扉には蹄鉄がついていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないと言った。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです」。(「ラカンはこう読め!」スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳 紀伊國屋書店)





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2016/2/22  0:15

俳句的「倒錯」  俳句

カント的主体はその倫理的な地位を保つために、その懐疑に、その不確実性に、死に物狂いでしがみつくのである。ここで念頭においているのは、一度〈理想〉が現実のものになってしまったら、生の緊張はすべて失われ、その後われわれに残されているものといえば、無気力で退屈な日々ばかり、というような月並み話ではない。はるかにもっと厳密なことが問題になっているのだ。一度「病理的な」染みが消えうせるや、普遍は個別へと暴落してしまうのである。まさにこれこそが、サド的な倒錯において起きていることであり、この理由からサドの倒錯はカントの強迫的な不確実性〔確信の欠如〕を絶対的確実性〔確信〕へと転倒しているといえる。倒錯者は、自分が何をしているか、〈他者〉が自分に何を望んでいるのかを完璧に知っている。なぜなら、彼は自分を〈他者〉の〈享楽への意志〉の道具−対象と捉えているからだ。正確にこの意味で、サドはカントの真理を上演してみせる。一切の強迫的懐疑から自由な倫理的行為をお望みか?それなら、ほら、ここにサドの倒錯がある!(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク ちくま学芸文庫)


俳句的「倒錯」というものがあるとすれば、これだ。いわゆる「教えたがる俳人たち」は、この倒錯的な意味で「俳句の代理人」である。彼らを支えているのは「私利私欲」ではなく、「俳句」が自分自身にそれを求めている、という「使命感」に他ならない。

その「使命感」のなかでは、俳句は「絶対的確実性〔確信〕」を基礎とし、首尾一貫した「はじめとおわり」のある超越的他者の姿をしている。





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2016/2/18  20:53

脅かされる俳句  俳句

抽象的に接近したとき、「問題」として現われる〔見える〕ものは、実際にはわれわれがそのために努力している、まったく「問題のない」、「正常な」事物の状態そのものの必然的な構成要素なのだということである。「問題のない」無垢な状態などというものは、「問題」に先立って存在することはけっしてない。われわれが「問題」から逃れるその瞬間、われわれはまさに自分が救おうと思っていたものを、「問題」によって脅かされていると感じていたものを失うのである。(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク ちくま学芸文庫)


ここでジジェクが言う「問題」と呼ぶものは俳句のなかにも顕れる。

注意しなければならないのは、俳句表現に完全な形式主義を持ち込むと、その洗練された技術は俳句が纏うこの「問題」さえも洗い流してしまうということだ。

俳句を読んで発散するものは、この「問題」が生みだす想像的な領域があるからだ。

俳句の本来的な技術とはこの「問題」を五七五のなかにいかに維持するか、ということに他ならない。


唯一の解決は、それゆえこういうものになる。われわれをあなたがたの「解決」に巻き込まないでくれ、そうすればおのずと問題は消滅する!(同書)




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2016/2/15  20:26

書こうとしたもの  俳句

逆説的に言えば、俳句における作家性とはいかにユニークで多彩な失敗作をつくるか、ということではないだろうか。

失敗作とは、つまり「書かれたもの」と作者が「書こうとしたもの」との間の差異であって、そうして「書こうとしたもの」から欠けた何ものかは、いわば「書かれたもの」に可能性として残る。

もちろん、この「書こうとしたもの」は「書かれたもの」を通して顕れるのであって「書かれたもの」のなかには「書こうとしたもの」が「書けなかったもの」として確かに書き込まれているのだ。

だから、ここで「書けなかったもの」は、その句の欠落した部分を予告し、暗示し、「書くこと」の象徴性から逃れ、〈モノ〉そのものとして読み手のなかに生成される。

読み手がそこで「欠落」だと思っていたものが、別の何ものかとして回帰する。

この回帰するための距離にこそ、本来その書き手が「書きたかったもの」がその作家の声として響いているのではないだろうか。





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2016/2/14  23:42

俳句をどこに向けて書くのか  俳句


私は〈他者〉とコミュニケートすることができる、私は彼(あるいはそれ)に対して「開かれている」、それは私がすでに私自身において分割され、「抑圧」の烙印を押されているかぎりにおいてであり、正確にただそのときにかぎる。つまり(いささか素朴で、感傷的ないい方をするなら)私にはけっして私自身と真のコミュニケーションを行うことはできないのである。〈他者〉とは、根源的に[そもそもの起源において]私自身の分割の、脱中心化された〈別の場所〉Other Placeである。フロイトの古典的な用語でいうなら、「他者たち」はここにいる。(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク ちくま学芸文庫)

俳句を書く、ということは、この分割された私自身に向けられている。俳句を書くこと、俳句を読むこと、は、書かれた句をあいだに置いて「想像的なもの」をやりとりしている。






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