近況 俳句
◆「死」と「季」鶏頭から脇道へ逸れて 中村安伸(俳句空間―豈weekly 2010年2月7日発行)new
◆第22回現代俳句協会青年部シンポジウム
「俳句以後」の世界new
◆haiku&me 9, 10月の俳句鑑賞
足が出て手が出てやがてカーニバル
◆俳句は誰に向けて書かれるのか(週刊俳句 第143号 2010年1月17日)
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◆第22回現代俳句協会青年部シンポジウム
「俳句以後」の世界new
◆haiku&me 9, 10月の俳句鑑賞
足が出て手が出てやがてカーニバル
◆俳句は誰に向けて書かれるのか(週刊俳句 第143号 2010年1月17日)
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2010/2/10 2:43
欺瞞 〜相対性俳句論(断片) 俳句
メモとして。
一方を見れば、リベラルな多文化主義が<他者>に寛容であるのは、それが現実なる〈他者〉ではなく、近代以前の環境と共生する智恵であるだとか、好奇の目が向かう儀式・儀礼などといった、人畜無害な〈他者〉であるという限定が付いての態度である
(中略)
他方では、寛容さを掲げる多文化主義に基づくリベラル派は、しばしば、この上なく残忍な人権侵害さえも容認しようとし、またそこまで極端ではなくとも、その行為を非難することにひどくためらいを感じてしまい、自分自身の価値を〈他者〉に押しつける態度だとの避難を受けはしないかと、いつもびくびくしている。
(中略)
われわれはいま、多文化主義者が、普遍的な人権というヨーロッパ中心主義的な自論を「他者」に押しつけるなと警鐘を鳴らすとき、これとまったく同じスタンスに対峙してしまうではないだろうか。もう一歩踏み込んで論ずれば、このような類の欺瞞に満ちた「寛容さ」とは、他でもない多国籍〈資本〉を代弁するスポークスマンが、「何よりもまずビジネス」という内実を正当化するため、しばしば持ち出してくる修辞法に等しいのではなかろうか。(『厄介なる主体 政治的存在論の空虚な中心1』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木俊弘+増田久美子訳 青土社)
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一方を見れば、リベラルな多文化主義が<他者>に寛容であるのは、それが現実なる〈他者〉ではなく、近代以前の環境と共生する智恵であるだとか、好奇の目が向かう儀式・儀礼などといった、人畜無害な〈他者〉であるという限定が付いての態度である
(中略)
他方では、寛容さを掲げる多文化主義に基づくリベラル派は、しばしば、この上なく残忍な人権侵害さえも容認しようとし、またそこまで極端ではなくとも、その行為を非難することにひどくためらいを感じてしまい、自分自身の価値を〈他者〉に押しつける態度だとの避難を受けはしないかと、いつもびくびくしている。
(中略)
われわれはいま、多文化主義者が、普遍的な人権というヨーロッパ中心主義的な自論を「他者」に押しつけるなと警鐘を鳴らすとき、これとまったく同じスタンスに対峙してしまうではないだろうか。もう一歩踏み込んで論ずれば、このような類の欺瞞に満ちた「寛容さ」とは、他でもない多国籍〈資本〉を代弁するスポークスマンが、「何よりもまずビジネス」という内実を正当化するため、しばしば持ち出してくる修辞法に等しいのではなかろうか。(『厄介なる主体 政治的存在論の空虚な中心1』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木俊弘+増田久美子訳 青土社)
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2010/2/9 0:45
去れよ闇 俳句
2010/2/7 11:53
名前の意味が 俳句
2010/2/6 1:24
災厄 〜相対性俳句論(断片) 俳句
波多野爽波について、次に田中裕明について、その次は桂信子について各所に書く予定。どうにも手ごわいです。
仕事の方はいよいよ火を噴き始めて2月は大変なことになりそうだと言うのに…
そういえば、先日書いた本ブログの記事。
いらちな文章で、これじゃ「イヤなかんじの人」と思われても仕方ない。ま、もっとも、人前でごきげんな自分と、こんないらちな文章を書いている自分と、どっちが本当の自分かよくわかっていないですが。
で、こんないらちな文章について、山口優夢さんからコメントが。
ふむ、ふむ。
そうか。と変に納得してしまう。
たじまさんが並べるこれらの言説の間にいかなる論理的な関連があるのか、それ以前にこれらの言説がそれぞれ何を言わんとしているのか、僕の頭ではよく分からない。「回答」とはどのような問いに対する回答のことなのだろうか?中心課題って、何に対する課題のこと?
考えてみれば、「見えていないだろう」という点について「見えていないんじゃないの?」ということを指摘したつもりなので「よく見えません」と言われるのはごもっとも。
別に、何か意地悪なことを言おうと思っているわけでも、精神論を押し付けようと思っているわけでもなくて、これはある種の技術的で具体的な問題なのだと思うのですね。
つまり、
なぜなら、これは僕らの世代が生き残るための「戦略」だからだ。子規や波郷のような死病を抱えているわけでもない、山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪をしているわけでもない、兜太や敏雄のように戦争を経験したわけでもない、平和な日常を甘受し、どこにでもいる若者として育ってきた僕らには、おそらく上の世代からも下の世代からも読まれるべき「ストーリー」というものは、ない。
この箇所ね。
・子規や波郷のような死病
・山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪
・兜太や敏雄のように戦争を経験
これらのことが、身の上に「経験」として訪れていない、ということが<平和な日常を甘受>であり、<どこにでもいる若者>であり、<読まれるべき「ストーリー」>がない、ということだというわけですが、こう考えてみたらどうでしょうか。
これらの「死病」「放浪」「戦争」というような災厄が、実は既に身の上にも起きているにも関わらず、それが見えていない。
見えるところまでが世界だとすれば、このような考え方は馬鹿げているわけです。でも、我々は「見えないところにも世界がある」ということを経験的に知っているわけです。
だとすれば、このような可能性というものは想像力で補完可能な範囲ですよね。
で、この「見えないもの」にかたちを与えるのが、俳句のひとつのあり方だとすれば、ここで言うところの「想像力」というのは、まさに俳句をつくる上での技術的な問題に他ならないわけです。
仮に、このように「見えていないところにも世界がある」ということにかたちを与えることができるのだとすれば、まさに<平和な日常>は脅かされ、<読まれるべき「ストーリー」>に光があたるわけです。
問題は、そのような「死病」「放浪」「戦争」という災厄に対して、それが「未経験」のもので、自分とは無関係なものとして線引きされているということです。
その線引きを行っている者は誰なのか。
これが、いわゆる<第三者>とか<他者>と呼ばれるものなわけで、俳句は<作者>と<読者>というニ項だけでは成立しないわけです。→参考「俳句は誰に向けて書かれるのか」(「週刊俳句」第143号 2010年1月17日)
この話はスタート地点からズレているわけです。
つまり、前述の
これらの「死病」「放浪」「戦争」というような災厄が、実は既に身の上にも起きているにも関わらず、それが見えていない。
ということ自体が、たじまがでっち上げた虚構ではないか、と。自分の身の上には災厄など起きてはいない、と。起きてもいないことを、「起きているにも関わらず」などとでっち上げるのは論理的に矛盾している、と。
けれども、そういう風にできているんです。僕たちの存在は。
そのルールが、俳句をも支配しているんだと思います。
それは、つまりとてもテクニカルな問題として。
例えば「生きていることは無意味だ」というゼロ地点があるとしたら、僕たちは「生きていることは幸福だ」というプラスと、「生きていることは不幸だ」というマイナスに引き裂かれているわけです。この引き裂かれているのは(つまり「幸福」とか「不幸」とか)は、幻想でしかないんです。けれども、その幻想がなければ「生きていることは無意味だ」というゼロ地点が<現実>として顕になってくるわけで、僕たちはそのような<現実>には耐えることができないわけです。(まさに「生きていることは無意味だ」というのは自殺者の主張なわけです)
ないものを、あたかもあるものとして見てしまう、ここに俳句の重要な技術的要素があるわけです。
空へゆく階段のなし稲の花 田中裕明
ここで「空へゆく階段」というものは、存在論的には「偽」なわけですが、裕明はそれを敢えてことばにした上で、ふたたび「なし」と否定する。
でも、こうして「ない」ものを「ある、ものでは、ない」と遠回りして言うことでしか、ことばは何かをあらしめることができないのですね。
これは、虚構なわけです。
山口氏は、
そこで十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる必要がある。
と書かれていますが、「自分」から「虚構」を切り離すことが不可能なのは言うまでもありません。なぜなら、この「自分」というもの自体が「虚構」なのだということです。
「私を、私だと思わせているもの」というのは、常にこのような虚構を通して理解されているわけで、つまり「私は、私でないもの、ではない」という否定の否定でしか「私」というものは定義できないわけです。
俳句は、虚構として書かれるわけで、だからこそ書かれた虚構としての俳句は、既に「私」なのです。
この「私」から逃れることは、たぶん無理。
奇しくも俳句自動生成ロボットが示しているのは、従来考えられているように、自動生成ロボットには「主体性」がない、ということではなく、あたかも人間不在と考えられている彼らの作る作品が、ある種の多様性を示している(ように見える)という点なのであり、それぞれのプログラムの向こう側にある何らかの主体が、顕れてしまっている、ということなのです。
だから、俳句を読むということは、そもそも過剰な行為なのであって、「主体性」とは、洗っても洗っても洗い落とすことのできない「体臭」のようなものなわけです。「過剰な読み」を「否定する」ということは、「読み」という行為をフラットな状態に戻しているのではなく、さらに「過剰」にしていく行為だということなのだと思います。
すいません、分かりやすく書こうと思ったけど、余計ややこしくなっちゃった。
補足として、2点。
この議論は、そもそも山口優夢氏の書かれたブログ記事の引用した部分に特化した話題であり「鶏頭論争」については、いまのところあまり興味ないんです。
あと、災厄として山口氏の挙げた「死病」「放浪」「戦争」を例としていますが、なんだかこういう例は話の方向を偏らせるかも知れません。僕が「災厄」と呼ぶものには「恋愛」や「家族」「仕事」「ペット」など、など、ごく日常と考えられているものも含まれており、俳句における「季語」などはまさに「災厄」そのものなのだと、考えています。
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仕事の方はいよいよ火を噴き始めて2月は大変なことになりそうだと言うのに…
そういえば、先日書いた本ブログの記事。
いらちな文章で、これじゃ「イヤなかんじの人」と思われても仕方ない。ま、もっとも、人前でごきげんな自分と、こんないらちな文章を書いている自分と、どっちが本当の自分かよくわかっていないですが。
で、こんないらちな文章について、山口優夢さんからコメントが。
ふむ、ふむ。
そうか。と変に納得してしまう。
たじまさんが並べるこれらの言説の間にいかなる論理的な関連があるのか、それ以前にこれらの言説がそれぞれ何を言わんとしているのか、僕の頭ではよく分からない。「回答」とはどのような問いに対する回答のことなのだろうか?中心課題って、何に対する課題のこと?
考えてみれば、「見えていないだろう」という点について「見えていないんじゃないの?」ということを指摘したつもりなので「よく見えません」と言われるのはごもっとも。
別に、何か意地悪なことを言おうと思っているわけでも、精神論を押し付けようと思っているわけでもなくて、これはある種の技術的で具体的な問題なのだと思うのですね。
つまり、
なぜなら、これは僕らの世代が生き残るための「戦略」だからだ。子規や波郷のような死病を抱えているわけでもない、山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪をしているわけでもない、兜太や敏雄のように戦争を経験したわけでもない、平和な日常を甘受し、どこにでもいる若者として育ってきた僕らには、おそらく上の世代からも下の世代からも読まれるべき「ストーリー」というものは、ない。
この箇所ね。
・子規や波郷のような死病
・山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪
・兜太や敏雄のように戦争を経験
これらのことが、身の上に「経験」として訪れていない、ということが<平和な日常を甘受>であり、<どこにでもいる若者>であり、<読まれるべき「ストーリー」>がない、ということだというわけですが、こう考えてみたらどうでしょうか。
これらの「死病」「放浪」「戦争」というような災厄が、実は既に身の上にも起きているにも関わらず、それが見えていない。
見えるところまでが世界だとすれば、このような考え方は馬鹿げているわけです。でも、我々は「見えないところにも世界がある」ということを経験的に知っているわけです。
だとすれば、このような可能性というものは想像力で補完可能な範囲ですよね。
で、この「見えないもの」にかたちを与えるのが、俳句のひとつのあり方だとすれば、ここで言うところの「想像力」というのは、まさに俳句をつくる上での技術的な問題に他ならないわけです。
仮に、このように「見えていないところにも世界がある」ということにかたちを与えることができるのだとすれば、まさに<平和な日常>は脅かされ、<読まれるべき「ストーリー」>に光があたるわけです。
問題は、そのような「死病」「放浪」「戦争」という災厄に対して、それが「未経験」のもので、自分とは無関係なものとして線引きされているということです。
その線引きを行っている者は誰なのか。
これが、いわゆる<第三者>とか<他者>と呼ばれるものなわけで、俳句は<作者>と<読者>というニ項だけでは成立しないわけです。→参考「俳句は誰に向けて書かれるのか」(「週刊俳句」第143号 2010年1月17日)
この話はスタート地点からズレているわけです。
つまり、前述の
これらの「死病」「放浪」「戦争」というような災厄が、実は既に身の上にも起きているにも関わらず、それが見えていない。
ということ自体が、たじまがでっち上げた虚構ではないか、と。自分の身の上には災厄など起きてはいない、と。起きてもいないことを、「起きているにも関わらず」などとでっち上げるのは論理的に矛盾している、と。
けれども、そういう風にできているんです。僕たちの存在は。
そのルールが、俳句をも支配しているんだと思います。
それは、つまりとてもテクニカルな問題として。
例えば「生きていることは無意味だ」というゼロ地点があるとしたら、僕たちは「生きていることは幸福だ」というプラスと、「生きていることは不幸だ」というマイナスに引き裂かれているわけです。この引き裂かれているのは(つまり「幸福」とか「不幸」とか)は、幻想でしかないんです。けれども、その幻想がなければ「生きていることは無意味だ」というゼロ地点が<現実>として顕になってくるわけで、僕たちはそのような<現実>には耐えることができないわけです。(まさに「生きていることは無意味だ」というのは自殺者の主張なわけです)
ないものを、あたかもあるものとして見てしまう、ここに俳句の重要な技術的要素があるわけです。
空へゆく階段のなし稲の花 田中裕明
ここで「空へゆく階段」というものは、存在論的には「偽」なわけですが、裕明はそれを敢えてことばにした上で、ふたたび「なし」と否定する。
でも、こうして「ない」ものを「ある、ものでは、ない」と遠回りして言うことでしか、ことばは何かをあらしめることができないのですね。
これは、虚構なわけです。
山口氏は、
そこで十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる必要がある。
と書かれていますが、「自分」から「虚構」を切り離すことが不可能なのは言うまでもありません。なぜなら、この「自分」というもの自体が「虚構」なのだということです。
「私を、私だと思わせているもの」というのは、常にこのような虚構を通して理解されているわけで、つまり「私は、私でないもの、ではない」という否定の否定でしか「私」というものは定義できないわけです。
俳句は、虚構として書かれるわけで、だからこそ書かれた虚構としての俳句は、既に「私」なのです。
この「私」から逃れることは、たぶん無理。
奇しくも俳句自動生成ロボットが示しているのは、従来考えられているように、自動生成ロボットには「主体性」がない、ということではなく、あたかも人間不在と考えられている彼らの作る作品が、ある種の多様性を示している(ように見える)という点なのであり、それぞれのプログラムの向こう側にある何らかの主体が、顕れてしまっている、ということなのです。
だから、俳句を読むということは、そもそも過剰な行為なのであって、「主体性」とは、洗っても洗っても洗い落とすことのできない「体臭」のようなものなわけです。「過剰な読み」を「否定する」ということは、「読み」という行為をフラットな状態に戻しているのではなく、さらに「過剰」にしていく行為だということなのだと思います。
すいません、分かりやすく書こうと思ったけど、余計ややこしくなっちゃった。
補足として、2点。
この議論は、そもそも山口優夢氏の書かれたブログ記事の引用した部分に特化した話題であり「鶏頭論争」については、いまのところあまり興味ないんです。
あと、災厄として山口氏の挙げた「死病」「放浪」「戦争」を例としていますが、なんだかこういう例は話の方向を偏らせるかも知れません。僕が「災厄」と呼ぶものには「恋愛」や「家族」「仕事」「ペット」など、など、ごく日常と考えられているものも含まれており、俳句における「季語」などはまさに「災厄」そのものなのだと、考えています。
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2010/2/5 9:04
オープンソース 俳句
2010/2/4 2:48
折り合い 〜相対性俳句論(断片) 俳句
俳句を、俳句っぽく語る。
ことばを、ことばっぽく語る。
自分を自分っぽく語る。
それは、一種のナルシシズムなのだと思う。
自分のなかに、スタンダードな自分と、違和感のある自分とがいて(そりゃ、誰だってそんなもんだ)、そのうちの自分が受け入れやすいスタンダードな自分だけを自分だとして、語る。
でもね、人間はひと続きのグラデーションだから、あれとこれ、という風には割り切れないわけで、つまりは受け入れ難い違和感たっぷりの自分自身というものとも、うまく折り合いをつけてやっていかなければならないのです。
そういう自分というのは、傍から見ればかなりキモいです。
でも、そういうキモい自分と折り合いをつけてひと塊の自分としてすがしく生きている、ということが大事なのだ。
自分のなかの、受け入れ難い自分を排除すれば、見目麗しき「公の私」があらわれる、と考えるのは間違いで、そんなニュートラルな自己などというものは存在しない。
受け入れ難い自分を排除し続ければ、そこに残るのはまるでつかみ所のない空虚な現実で、もはや主体ですらない。
そうやって、自分のなかの折り合いのつかない自分、というものと折り合いをつけて、そういう違和感のある自分を自分のなかに取り込んでいくことを、「成長」というのだろう。
だからね、いろいろなスタイルはあるだろうけど、ちょっとくらいキモい方が素敵なのだと思うよ。
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ことばを、ことばっぽく語る。
自分を自分っぽく語る。
それは、一種のナルシシズムなのだと思う。
自分のなかに、スタンダードな自分と、違和感のある自分とがいて(そりゃ、誰だってそんなもんだ)、そのうちの自分が受け入れやすいスタンダードな自分だけを自分だとして、語る。
でもね、人間はひと続きのグラデーションだから、あれとこれ、という風には割り切れないわけで、つまりは受け入れ難い違和感たっぷりの自分自身というものとも、うまく折り合いをつけてやっていかなければならないのです。
そういう自分というのは、傍から見ればかなりキモいです。
でも、そういうキモい自分と折り合いをつけてひと塊の自分としてすがしく生きている、ということが大事なのだ。
自分のなかの、受け入れ難い自分を排除すれば、見目麗しき「公の私」があらわれる、と考えるのは間違いで、そんなニュートラルな自己などというものは存在しない。
受け入れ難い自分を排除し続ければ、そこに残るのはまるでつかみ所のない空虚な現実で、もはや主体ですらない。
そうやって、自分のなかの折り合いのつかない自分、というものと折り合いをつけて、そういう違和感のある自分を自分のなかに取り込んでいくことを、「成長」というのだろう。
だからね、いろいろなスタイルはあるだろうけど、ちょっとくらいキモい方が素敵なのだと思うよ。
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2010/2/3 3:38
分かり合えないということ 〜相対性俳句論(断片) 俳句
ことばは、「分かり合うためのツール」だとか、「ことばのないコミュニケーション」だとか、つまりは、人と人との関係性を補完するものとして「ことば」というものが語られるケースがある。
「分かる」「分からない」という問題がさきがけて存在して、そのような「分かり合えない」主体同士が「分かり合う」ためのものとして「ことば」がある、と。
けれども、よく考えてみると、そのような「分かる」「分からない」という概念自体が、「ことば」があることで発生している、といえないだろうか。
「ことば」は最上位概念なのである。
つまり、「ことば」というものが過不足のない「意味」を付与されている、と信じられていることによって、「わたし」と「あなた」が同じAという対象に同じことばで呼びかけたとしても、その呼びかけは「わたし」と「あなた」では、ぴったりと一致する、ということがない。
「ことば」があるから、「差」が生まれる。
その「差」が、主体同士の「コミュニケーション」という概念を生み出すわけで、もし我々が「ことば」を持たなかったとしたら、我々には「分かり合う」という概念自体が存在せず、何かが「同じ」である、ということを名指すことすらできないのだ。
例えるなら、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」は、「ことば」があるために永遠に一致することのない主体の物語なのである。
つまり、「分かり合えない」ということもまた、ことばが生み出すひとつの「コミュニケーション」のかたちのひとつだと理解すれば、世の中の多くの悲劇が回避できるかも知れない、と考えたりする。
まったく、余計なお世話である。
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「分かる」「分からない」という問題がさきがけて存在して、そのような「分かり合えない」主体同士が「分かり合う」ためのものとして「ことば」がある、と。
けれども、よく考えてみると、そのような「分かる」「分からない」という概念自体が、「ことば」があることで発生している、といえないだろうか。
「ことば」は最上位概念なのである。
つまり、「ことば」というものが過不足のない「意味」を付与されている、と信じられていることによって、「わたし」と「あなた」が同じAという対象に同じことばで呼びかけたとしても、その呼びかけは「わたし」と「あなた」では、ぴったりと一致する、ということがない。
「ことば」があるから、「差」が生まれる。
その「差」が、主体同士の「コミュニケーション」という概念を生み出すわけで、もし我々が「ことば」を持たなかったとしたら、我々には「分かり合う」という概念自体が存在せず、何かが「同じ」である、ということを名指すことすらできないのだ。
例えるなら、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」は、「ことば」があるために永遠に一致することのない主体の物語なのである。
つまり、「分かり合えない」ということもまた、ことばが生み出すひとつの「コミュニケーション」のかたちのひとつだと理解すれば、世の中の多くの悲劇が回避できるかも知れない、と考えたりする。
まったく、余計なお世話である。
0
2010/2/2 8:10
遅延 俳句
2010/2/1 23:44
いつも 俳句
2010/2/1 23:26
広重 俳句
2010/1/31 23:52
主体という領域 〜相対性俳句論(断片) 俳句
・先だって行われた、現代俳句協会青年部の勉強会、四ッ谷龍講演「田中裕明『夜の形式』とは何か」について、週刊俳句(第145号 2010/1/31)に上田信治さんのレポートが掲載されています。こちら。
・新撰21の鴇田智哉さんの句について、金子敦さんが鑑賞。
風船になつてゐる間も目をつむり 鴇田智哉
いい句だなぁ。
金子さんも「鴇田俳句の大ファンの一読者」と書かれているが、鴇田ファンであることを表明する人は多い。僕もその一人。これほど読者から「ファンです!」と表明される俳句作家は少ないのではないだろうか。
それは、たぶん僕たちが「鴇田作品」に対して絶対的な遅れを、つまりはとても自分には創ることができない世界を、感じ取っているからだと思う。
「鴇田さんのファンです!」と表明することで、自分自身を俳句の淵から救い上げているようなところがあるんです。少なくとも、僕は。
・「―俳句空間―豈weekly」第76号(2010年1月31日発行)に、山口優夢さんの「鶏頭論争もちょっと、にちょっと」が掲載。先週の高山れおなさんによる「鶏頭論争もちょっと」に反応されて。
今後、ちょっと話題になりそうなやりとり。(これもまた「鶏頭論争」に付け加えられていくのでしょうかね…)
途中の主題としての議論はともかく、ちょっと気になることがあってコメント。
しかし、実は僕は心情的には高柳氏に加担したいという気持ちが強い。なぜなら、これは僕らの世代が生き残るための「戦略」だからだ。子規や波郷のような死病を抱えているわけでもない、山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪をしているわけでもない、兜太や敏雄のように戦争を経験したわけでもない、平和な日常を甘受し、どこにでもいる若者として育ってきた僕らには、おそらく上の世代からも下の世代からも読まれるべき「ストーリー」というものは、ない。不幸が無いのが不幸、という、ふざけた状況に生きている僕らが、それでも自分たちの言葉を残していこうとするとき、句の背景にある作者の人生といったものは使うことのできないほど貧弱なものであることは、誰よりも僕ら自身が一番痛感しているのだ。そこで十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる必要がある。あるいは、全くの虚構である必要はなく、現実に結びついていたとしても、自分からは切り離されてもいいように十七音を育てておく必要がある。十七音を作者から切り離したがっているのは、僕ら自身なのである。実は、高柳氏が示しているのは、作者の論理が反転した読みの論理だったのではないか。
最近、「世代論」的な「戦略」として俳句が語られる場面が多いように感じるのは僕だけかしらん?同世代に塊としての作家群があって、それを横軸でひとくくりに理解しよう、という試みと(何のために?)、その中での自分の立ち位置を「戦略」として言語化する、というのが流行っているのだろうか。
最近はポストモダンの影響か、「大きな物語の終焉」的な議論が多い。現代俳句協会青年部で「前衛俳句は死んだのか」というシンポジウムを行ったときも、そういう反応が実に多かった。
子規や波郷のような死病を抱えているわけでもない、山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪をしているわけでもない、兜太や敏雄のように戦争を経験したわけでもない、平和な日常を甘受し、どこにでもいる若者として育ってきた僕らには、おそらく上の世代からも下の世代からも読まれるべき「ストーリー」というものは、ない。不幸が無いのが不幸、という、ふざけた状況に生きている僕ら
山口優夢氏の言う「平和な日常」って何のこと?「他の国家との戦闘状態にないこと」や、「日常生活に必要なモノに事欠かない」ということが「平和な日常」ということ?テロをはじめとする国際紛争や、前代未聞の失業率、年間3万人を超える自殺者、などなどは、ま、とりあえず自分には影響がないみたいだし、みたいな。
おい、おい。それは「状況」がふざけているわけではないんじゃないかな?
俳句が、ことばを通して、世界でまだ言語化されていないものへコミットする行為だとすれば、ひとつ確実に言えることは、ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる
太平洋戦争中に不幸な時代状況のなかで特攻隊として犠牲になった若者たちと、現代社会でうつ病になるまで働いて自殺してしまうサラリーマンのあいだに、「たまたま不幸な時代だったから」という回答しか与えられないとしたら、それはただの想像力の欠如に過ぎないのでは?
そこで十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる必要がある。
たぶん、ここが違うんだ。
まず残すべき「自分たちの言葉」というものが存在して、そのために「十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる」と山口氏は言うが、そのような「自分から切り離した虚構」が「自分たちの言葉」であることを保証してくれるのは、誰なんだろう。
「ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる」からこそ、それを請け負うのは「自分」でしかない。
鶏頭論争の中心課題は、この山口氏が「自分たちの言葉」と呼ぶような領域が実は存在せず、それを請け負う「主体」と呼ぶべきものが作品を後から追ってくる、という点にあるのではないかしらん。
十七音を作者から切り離したがっているのは、僕ら自身なのである。
つまり、それは時間の流れが逆で、十七音から切り離すべき「作者」なるものは、まだどこにもいないんだよ。
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・新撰21の鴇田智哉さんの句について、金子敦さんが鑑賞。
風船になつてゐる間も目をつむり 鴇田智哉
いい句だなぁ。
金子さんも「鴇田俳句の大ファンの一読者」と書かれているが、鴇田ファンであることを表明する人は多い。僕もその一人。これほど読者から「ファンです!」と表明される俳句作家は少ないのではないだろうか。
それは、たぶん僕たちが「鴇田作品」に対して絶対的な遅れを、つまりはとても自分には創ることができない世界を、感じ取っているからだと思う。
「鴇田さんのファンです!」と表明することで、自分自身を俳句の淵から救い上げているようなところがあるんです。少なくとも、僕は。
・「―俳句空間―豈weekly」第76号(2010年1月31日発行)に、山口優夢さんの「鶏頭論争もちょっと、にちょっと」が掲載。先週の高山れおなさんによる「鶏頭論争もちょっと」に反応されて。
今後、ちょっと話題になりそうなやりとり。(これもまた「鶏頭論争」に付け加えられていくのでしょうかね…)
途中の主題としての議論はともかく、ちょっと気になることがあってコメント。
しかし、実は僕は心情的には高柳氏に加担したいという気持ちが強い。なぜなら、これは僕らの世代が生き残るための「戦略」だからだ。子規や波郷のような死病を抱えているわけでもない、山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪をしているわけでもない、兜太や敏雄のように戦争を経験したわけでもない、平和な日常を甘受し、どこにでもいる若者として育ってきた僕らには、おそらく上の世代からも下の世代からも読まれるべき「ストーリー」というものは、ない。不幸が無いのが不幸、という、ふざけた状況に生きている僕らが、それでも自分たちの言葉を残していこうとするとき、句の背景にある作者の人生といったものは使うことのできないほど貧弱なものであることは、誰よりも僕ら自身が一番痛感しているのだ。そこで十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる必要がある。あるいは、全くの虚構である必要はなく、現実に結びついていたとしても、自分からは切り離されてもいいように十七音を育てておく必要がある。十七音を作者から切り離したがっているのは、僕ら自身なのである。実は、高柳氏が示しているのは、作者の論理が反転した読みの論理だったのではないか。
最近、「世代論」的な「戦略」として俳句が語られる場面が多いように感じるのは僕だけかしらん?同世代に塊としての作家群があって、それを横軸でひとくくりに理解しよう、という試みと(何のために?)、その中での自分の立ち位置を「戦略」として言語化する、というのが流行っているのだろうか。
最近はポストモダンの影響か、「大きな物語の終焉」的な議論が多い。現代俳句協会青年部で「前衛俳句は死んだのか」というシンポジウムを行ったときも、そういう反応が実に多かった。
子規や波郷のような死病を抱えているわけでもない、山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪をしているわけでもない、兜太や敏雄のように戦争を経験したわけでもない、平和な日常を甘受し、どこにでもいる若者として育ってきた僕らには、おそらく上の世代からも下の世代からも読まれるべき「ストーリー」というものは、ない。不幸が無いのが不幸、という、ふざけた状況に生きている僕ら
山口優夢氏の言う「平和な日常」って何のこと?「他の国家との戦闘状態にないこと」や、「日常生活に必要なモノに事欠かない」ということが「平和な日常」ということ?テロをはじめとする国際紛争や、前代未聞の失業率、年間3万人を超える自殺者、などなどは、ま、とりあえず自分には影響がないみたいだし、みたいな。
おい、おい。それは「状況」がふざけているわけではないんじゃないかな?
俳句が、ことばを通して、世界でまだ言語化されていないものへコミットする行為だとすれば、ひとつ確実に言えることは、ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる
太平洋戦争中に不幸な時代状況のなかで特攻隊として犠牲になった若者たちと、現代社会でうつ病になるまで働いて自殺してしまうサラリーマンのあいだに、「たまたま不幸な時代だったから」という回答しか与えられないとしたら、それはただの想像力の欠如に過ぎないのでは?
そこで十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる必要がある。
たぶん、ここが違うんだ。
まず残すべき「自分たちの言葉」というものが存在して、そのために「十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる」と山口氏は言うが、そのような「自分から切り離した虚構」が「自分たちの言葉」であることを保証してくれるのは、誰なんだろう。
「ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる」からこそ、それを請け負うのは「自分」でしかない。
鶏頭論争の中心課題は、この山口氏が「自分たちの言葉」と呼ぶような領域が実は存在せず、それを請け負う「主体」と呼ぶべきものが作品を後から追ってくる、という点にあるのではないかしらん。
十七音を作者から切り離したがっているのは、僕ら自身なのである。
つまり、それは時間の流れが逆で、十七音から切り離すべき「作者」なるものは、まだどこにもいないんだよ。
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2010/1/30 2:49
再帰と交換 〜相対性俳句論(断片) 俳句
本質、というものが存在しないことが本質だ。
というような、いじわるなことを言う。
例えば、はじめて野球観戦をするとき、野球観戦の楽しみ方を知っている誰か(例えば、父親)に野球場へ連れて行かれる。そうやって楽しみを教えて貰った彼(例えば、息子)は、そのまた誰か(例えば、息子の息子)にその楽しみを教えていく。
そうやって「ものの見方」は引き継がれていくのだろうけれども、それでは、そのもっとも起源になる「誰か」さんは、どのようにして「ものの見方」を知ったのだろう。
おそらく、答えはひとつ。
それは「もの、そのものの中に、そのものの見方が記載されている」ということ。
俳句の読み、についても同様。
俳句を読む、ということは、多分に「読み方」というものを人から引き継いでいくのだけれど、その最も起点にまったく倫理的な地点として「俳句そのものに書き込まれた読み方」を読む、ということがあるのだ。
俳句は、本質に収斂することができない。
本質が常にズラされている、ということは、俳句にはいわゆる「内容」というものが存在せず、その意味は「形式」そのものの中に「意味」として書き込まれているのだ。
これが、つまり「かたち」と「内容」が一致している、ということに他ならない。
では、これは何を意味しているのか。
それは、俳句がふたつの出来事に巻き込まれていることを示している。
ひとつは「再帰」すること。もうひとつは「交換」されること。
俳句の中核がカラッポである、ということにどういう意味があるのか、これまで考えあぐねていたのだが、ようやくその意味が見えてきた。
つまり、俳句の不可能性とは「再帰」的なものであり、私たちはそのような不可能性を身のほとりに置いて、何度も参照する。
そして、見逃されやすき(現に、僕が見逃していた)もうひとつは「交換」可能である、ということだ。
僕たちは、俳句をpassする。俳句がpass可能である、ということは、俳句には「所蔵」すべき「意味」などなくて、その空間を私から<他者>へとpassする、その身振りのなかに、まさに「意味」と呼ぶべき価値が含まれている、ということなのだ。
俳句はつまり<私>から<私>へ、そして<私>から<他者>へというシンプルな構図をもっているのである。
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というような、いじわるなことを言う。
例えば、はじめて野球観戦をするとき、野球観戦の楽しみ方を知っている誰か(例えば、父親)に野球場へ連れて行かれる。そうやって楽しみを教えて貰った彼(例えば、息子)は、そのまた誰か(例えば、息子の息子)にその楽しみを教えていく。
そうやって「ものの見方」は引き継がれていくのだろうけれども、それでは、そのもっとも起源になる「誰か」さんは、どのようにして「ものの見方」を知ったのだろう。
おそらく、答えはひとつ。
それは「もの、そのものの中に、そのものの見方が記載されている」ということ。
俳句の読み、についても同様。
俳句を読む、ということは、多分に「読み方」というものを人から引き継いでいくのだけれど、その最も起点にまったく倫理的な地点として「俳句そのものに書き込まれた読み方」を読む、ということがあるのだ。
俳句は、本質に収斂することができない。
本質が常にズラされている、ということは、俳句にはいわゆる「内容」というものが存在せず、その意味は「形式」そのものの中に「意味」として書き込まれているのだ。
これが、つまり「かたち」と「内容」が一致している、ということに他ならない。
では、これは何を意味しているのか。
それは、俳句がふたつの出来事に巻き込まれていることを示している。
ひとつは「再帰」すること。もうひとつは「交換」されること。
俳句の中核がカラッポである、ということにどういう意味があるのか、これまで考えあぐねていたのだが、ようやくその意味が見えてきた。
つまり、俳句の不可能性とは「再帰」的なものであり、私たちはそのような不可能性を身のほとりに置いて、何度も参照する。
そして、見逃されやすき(現に、僕が見逃していた)もうひとつは「交換」可能である、ということだ。
僕たちは、俳句をpassする。俳句がpass可能である、ということは、俳句には「所蔵」すべき「意味」などなくて、その空間を私から<他者>へとpassする、その身振りのなかに、まさに「意味」と呼ぶべき価値が含まれている、ということなのだ。
俳句はつまり<私>から<私>へ、そして<私>から<他者>へというシンプルな構図をもっているのである。
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2010/1/29 6:03
ハード 俳句
2010/1/27 22:15
立ち位置 俳句