おしらせ 俳句
2009/11/5 2:46
苦痛 〜相対性俳句論(断片) 俳句
この苦しみや戸惑いが、例えば何かの病によるものだとすれば、ずっと気が楽になる。
病であれば、治療すればよいからだ。
病の向こう側に、正常な精神の有り様があって、そのような健康で明るい世界が、僕の視線と無関係に存在するのであれば、僕たちが「苦しみ」と呼ぶものはそれほど深いものではなくなる。
そうではない。
いま自分が見ている世界が、すべてなのだ。
真に問題なのは、
自分を最も苦しめているものが、自分自身を成立させている唯一のものだ、ということだ。
この苦しみを見つめている、僕の視線は僕だけのもので、いたってまともなのだ。
この苦痛を排除することができるのだろうか。仮に排除できたとして、それによって欠落した穴を、何が埋めてくれるのだろう。
僕が見つめている苦しみは、対象ではなく、僕の視線そのものなのだろう。
だとすれば、雨雲の向うは、どしゃぶりかも知れないじゃないか。
世界がどしゃぶりなのかどうかは、僕の視線にかかっている。
倫理的で、享楽的でありたいと、願う。
そう願うから、迷っているのだ。
この苦しみの前で、僕は悩んでいるのではない、倫理的であるために、享楽的であるために、果てしなく迷っているのである。
↓クリックをお願いします。

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病であれば、治療すればよいからだ。
病の向こう側に、正常な精神の有り様があって、そのような健康で明るい世界が、僕の視線と無関係に存在するのであれば、僕たちが「苦しみ」と呼ぶものはそれほど深いものではなくなる。
そうではない。
いま自分が見ている世界が、すべてなのだ。
真に問題なのは、
自分を最も苦しめているものが、自分自身を成立させている唯一のものだ、ということだ。
この苦しみを見つめている、僕の視線は僕だけのもので、いたってまともなのだ。
この苦痛を排除することができるのだろうか。仮に排除できたとして、それによって欠落した穴を、何が埋めてくれるのだろう。
僕が見つめている苦しみは、対象ではなく、僕の視線そのものなのだろう。
だとすれば、雨雲の向うは、どしゃぶりかも知れないじゃないか。
世界がどしゃぶりなのかどうかは、僕の視線にかかっている。
倫理的で、享楽的でありたいと、願う。
そう願うから、迷っているのだ。
この苦しみの前で、僕は悩んでいるのではない、倫理的であるために、享楽的であるために、果てしなく迷っているのである。
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2009/10/29 3:25
たまには検索キーワードを見てみたりする 俳句
この1ヶ月ほどの、本ブログにおける検索ワード。
神野紗希
俳句
ブログ
神野
矢野玲奈
紗希
たじま屋
健康
若者と俳句
悲しみの俳句
俳句論
坂本龍馬
俳句季語論
阪西敦子
俳句の有名人
たまさんのエロ画像
エロ
挨拶
読み方
本文
夢
中村草田男
切れとは
若者の俳句観
たじま
芭蕉の人生
戦争想望俳句
俳句における批評とは
芭蕉入門
仙田洋子
なんか俳句っぽいキーワードが多いね。
「たまさんのエロ画像」「エロ」で検索して、うちのブログにたどり着いた方は、お気の毒です。
俳人の名前が多いなかで、幕末の志士「坂本龍馬」が健闘している。
健闘したからどうだ、というわけではないですが。
あれ?それとも龍馬も俳句やってたとか?
まさかね。
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神野紗希
俳句
ブログ
神野
矢野玲奈
紗希
たじま屋
健康
若者と俳句
悲しみの俳句
俳句論
坂本龍馬
俳句季語論
阪西敦子
俳句の有名人
たまさんのエロ画像
エロ
挨拶
読み方
本文
夢
中村草田男
切れとは
若者の俳句観
たじま
芭蕉の人生
戦争想望俳句
俳句における批評とは
芭蕉入門
仙田洋子
なんか俳句っぽいキーワードが多いね。
「たまさんのエロ画像」「エロ」で検索して、うちのブログにたどり着いた方は、お気の毒です。
俳人の名前が多いなかで、幕末の志士「坂本龍馬」が健闘している。
健闘したからどうだ、というわけではないですが。
あれ?それとも龍馬も俳句やってたとか?
まさかね。
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2009/10/28 2:19
手に負えないもの 〜相対性俳句論(断片) 俳句
俳句も仕事も「手に負えないもの」を扱っている。
だから、どんなに理路整然としていても、そのような「手に負えないもの」に対峙していない言説は、ほとんど必要ないに等しい。
「手に負えないもの」が厄介なのは、それが「手に負えないもの」であることを、経験や知識で判断することができない、ということだ。
そのような判断の外に位置しているからこそ、それは「手に負えないもの」なのだ。
俳句についてのさまざまな言説について、やはり「問題の立て方が違う」と感じることが多いのは、ある種の命題について、つまり私たちが対峙すべき問題を、私たち自身が選択できる、というような視点から設定された「解決可能な」あるいは「議論可能な」問題として提示されていることがほとんどだということだ。
「手に負えないもの」とは、文字通り「手に負えないもの」なのであり、なにかぐうの音も出ないような、激しい苦痛に近いものだ。
俳句について語ることばが、常に俳句を目的語としてしまうことの難しさ。「俳句で」「俳句を」「俳句について」というかたちで、俳句を「対象」として語ることの違和感。(その違和感を説明するために、また「俳句について」と書かざるを得ないということ・・・)
言うまでもなく、俳句は「対象」ではなく、世界を「対象化」するための一つの視線であり、視点であり、眼であり、眼球であり、網膜なのだ。
だから俳句は対象化不能な、ひとつの「近さ」である。
だれも、「あなた」に俳句を背負うことを求めてなんかいないんだよ。
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だから、どんなに理路整然としていても、そのような「手に負えないもの」に対峙していない言説は、ほとんど必要ないに等しい。
「手に負えないもの」が厄介なのは、それが「手に負えないもの」であることを、経験や知識で判断することができない、ということだ。
そのような判断の外に位置しているからこそ、それは「手に負えないもの」なのだ。
俳句についてのさまざまな言説について、やはり「問題の立て方が違う」と感じることが多いのは、ある種の命題について、つまり私たちが対峙すべき問題を、私たち自身が選択できる、というような視点から設定された「解決可能な」あるいは「議論可能な」問題として提示されていることがほとんどだということだ。
「手に負えないもの」とは、文字通り「手に負えないもの」なのであり、なにかぐうの音も出ないような、激しい苦痛に近いものだ。
俳句について語ることばが、常に俳句を目的語としてしまうことの難しさ。「俳句で」「俳句を」「俳句について」というかたちで、俳句を「対象」として語ることの違和感。(その違和感を説明するために、また「俳句について」と書かざるを得ないということ・・・)
言うまでもなく、俳句は「対象」ではなく、世界を「対象化」するための一つの視線であり、視点であり、眼であり、眼球であり、網膜なのだ。
だから俳句は対象化不能な、ひとつの「近さ」である。
だれも、「あなた」に俳句を背負うことを求めてなんかいないんだよ。
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2009/10/24 2:42
ネガティブ つれづれ
今日は、友人たちと食事をする約束をしていたのに、仕事が火をふいて行くことができなかった。
結局、家に帰宅したのが夜中の2時すぎ。
明日も仕事になってしまいました。
仕方のないことだけど、ブルーです。
ときどき無償に消えてしまいたい気分になる。
ほんとに、出来の悪い人間だ、俺。
こうして自虐的なブログを書いて、自分を慰めている。あー、嫌だ。
なんだか、このところひどい寝不足のせいか、やたらとネガティブな気分。
よくないなぁ。
なに、週明けには気分が戻ってくるさ。きっと。
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結局、家に帰宅したのが夜中の2時すぎ。
明日も仕事になってしまいました。
仕方のないことだけど、ブルーです。
ときどき無償に消えてしまいたい気分になる。
ほんとに、出来の悪い人間だ、俺。
こうして自虐的なブログを書いて、自分を慰めている。あー、嫌だ。
なんだか、このところひどい寝不足のせいか、やたらとネガティブな気分。
よくないなぁ。
なに、週明けには気分が戻ってくるさ。きっと。
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2009/10/23 1:36
また、写生ですかG 〜相対性俳句論(断片) 俳句
このところ、仕事で終電つづきで眠くてしょうがない。
眠いとイライラするのは、僕だけか。
未熟者の僕は、ついイライラしてしまい、嫌な感じをかもし出していると思う。たぶん。ごめん。
先週末の現代俳句協会青年部の勉強会は、準備不足だった割には内容の濃いものになったと思う。問題の核心に触れた。
来れなかった方は、残念。
「写生」というものを、シンプルな技術論であるとか、けったいな人生論であるとか、不可解な異化作用であるとか、いろいろと見方はあると思うが、俳句作家にとって、それは、ひとつの経験ということができるだろう。
おそらく「見る」という行為が、「見る」主体の視線を追い越してしまうことがある、ということなのだ。
つまり、見ているもの以上のものが見えてしまう。
このような物言いが、根拠のない精神論に聴こえてしまうかも知れないが、そうではない。
私たちが日常生活のなかで過ごしている、「原因と結果」が逆転する出来事。それはまさに、それが時間的な出来事であることを示している。
「主客の逆転」。「見ている私」が「見ている対象」から「見つめ返される」ということ。
そのような立場に立つ(立ってしまう)とき、あたかもこれまでの日常がかすんで消えてしまい、これまで「染み」のようなものに思っていた些細な「異物」が活き活きと意味を持ち出すのである。
「写生」を行う私という主体は、無限の領域から見れば、ひとつ限界であり消すことのできない「からだ」だ。
その「限界」近くでかろうじて生きている、ということは、曖昧な人生論でもなければ、根拠のない精神論でもなく、非常に具体的な「態度」とも呼べるものである。
その意味では、波多野爽波が言うように、俳句は「スポーツ」に近いものかも知れない。
以上のような「写生」における出来事について考えるときに、爽波の「俳句スポーツ説」には、ひとつの大きな問題があると思う(それについては、勉強会で述べた)のだが、それについてはまた改めて整理したいと考えている。
いずれにせよ、現代俳句協会青年部の勉強会は、これから徐々に面白くなってきそうな予感がしてきた…ような気がするのは、僕だけなのかなぁ…
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眠いとイライラするのは、僕だけか。
未熟者の僕は、ついイライラしてしまい、嫌な感じをかもし出していると思う。たぶん。ごめん。
先週末の現代俳句協会青年部の勉強会は、準備不足だった割には内容の濃いものになったと思う。問題の核心に触れた。
来れなかった方は、残念。
「写生」というものを、シンプルな技術論であるとか、けったいな人生論であるとか、不可解な異化作用であるとか、いろいろと見方はあると思うが、俳句作家にとって、それは、ひとつの経験ということができるだろう。
おそらく「見る」という行為が、「見る」主体の視線を追い越してしまうことがある、ということなのだ。
つまり、見ているもの以上のものが見えてしまう。
このような物言いが、根拠のない精神論に聴こえてしまうかも知れないが、そうではない。
私たちが日常生活のなかで過ごしている、「原因と結果」が逆転する出来事。それはまさに、それが時間的な出来事であることを示している。
「主客の逆転」。「見ている私」が「見ている対象」から「見つめ返される」ということ。
そのような立場に立つ(立ってしまう)とき、あたかもこれまでの日常がかすんで消えてしまい、これまで「染み」のようなものに思っていた些細な「異物」が活き活きと意味を持ち出すのである。
「写生」を行う私という主体は、無限の領域から見れば、ひとつ限界であり消すことのできない「からだ」だ。
その「限界」近くでかろうじて生きている、ということは、曖昧な人生論でもなければ、根拠のない精神論でもなく、非常に具体的な「態度」とも呼べるものである。
その意味では、波多野爽波が言うように、俳句は「スポーツ」に近いものかも知れない。
以上のような「写生」における出来事について考えるときに、爽波の「俳句スポーツ説」には、ひとつの大きな問題があると思う(それについては、勉強会で述べた)のだが、それについてはまた改めて整理したいと考えている。
いずれにせよ、現代俳句協会青年部の勉強会は、これから徐々に面白くなってきそうな予感がしてきた…ような気がするのは、僕だけなのかなぁ…
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2009/10/21 9:02
マジック 俳句
2009/10/15 9:32
メモ2 俳句