枕草子
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秋は、夕暮。夕日のさして、山の端(は)いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの列ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。
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11月になった。自然の移り変わりも、秋らしい風情を見せる。清少納言は、宮廷にいるのであるから、都市の人であるかと思うと、実際には、山、鳥、風、虫などとともに生きている。
日本では、中国のような都城は発達せず、自然とひと続きになった村が発展したようなのが、都だった。そして、そこでは自然ですら、人間に敵する外部環境なのではなく、人の心と共感し合う、むしろ内部環境であった。
自然と自分との境界面が消え去って、没我の状態に入るというのが、仏教で言えば密教、イスラム教で言えばスーフィズム、キリスト教でも信仰生活の奥義として伝承される。宗教というのも、人と自然の融和というような非論理的な世界では、宗派を問わず、同質な法悦の境地というものが、共感されているだろう。
しかし、宗教も教団とか教会という組織論になってしまうと、互いに競合し、敵対し合うようになる。そうして、個人の信仰生活を深めることは、修道院のような専門機関に封じ込められてしまい、教会の政治的あるいは経済的な側面ばかりが前面に出る。
だが、自然を感じるということ、自分の精神が自分を取り囲む自然と繋がっていて、実際はそこに境界面がなく、茫洋とした宇宙世界は、そのまま自分の精神を構成するものだ、という感覚は、別に宗教という構えたものがなくても、人間を無限な存在にし、超越的な実体にする。
そんな感覚が、おのずと人間関係をも、互いを「思いやり」「信じ合う」ものにする。「秋深き隣は何をする人ぞ」という句もある。他の季節なら、別にどうでも良いから考えたこともない「隣人」のことをさえ思ってしまうのが、秋である。
鳥がねぐらに帰るのを見て、そこに家族があり、親子の絆があり、同じ速さで同じ方向に飛ぶ仲間への信頼感があるのをそのまま心に共感し、秋という季節が、心を騒がせる変化を示すものであっても、それがはじめから予定されていた通りの変化であることも分かっていて、結局は数えられない回数繰り返された太古から続く愛の表現形態であると気付くような時、あらためて秋がやって来たことを悟るのである。

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