江戸時代の古地図をたよりに現在の東京を歩いて、かつての姿を想像してみる、というテレビ番組を動画で見て面白かった、という話を聞いて、そうは言っても、自分の生まれたあたりは、江戸の下町と言うよりも、江戸湾を埋め立てて造成したばかりの新規開発地帯だから、別段何があったという訳でもないだろうと思っていた。
そんなことがあったからでもないが、思いついて「深川江戸資料館」に行ってみた。そこでお土産として売っていたのが古地図をそのままプリントした「本所深川絵図」ハンカチで、これを良く見ると、自分の生まれたあたりが、隅っこの方に載っている。そして、驚いたことには、自分の生まれたそのあたりが、ちょうど屋敷のある町並と何もない田んぼになってしまう地帯との境界線あたりになっていたのである。
古地図には、文久2年の日付がある。これはもう明治にも近い1862年のことである。江戸時代もこのあたりまで来ると、町がどんどんひろがって来て、こんなところにまで延びて来ていたのだ。
それで、昭和の一時期、私の自宅だった場所に最も近い屋敷が誰のものであったかを見ると、「松平肥後守」とある。これは、京都所司代を務めた会津藩の松平容保のことである。こんな百姓が住むような土地に大名が不動産を所有するのを、抱(かかえ)屋敷と言うものらしい。そして、そのすぐ近所にひときわ大きな敷地を所有しているのが、「一橋殿」である。言わずと知れた十五代将軍徳川慶喜だ。どうもこのあたりは、そうした大名たちの抱屋敷が並んでいたもののようである。
Wikipediaによれば、彼は、ちょうどこの地図の描かれた文久2年に、孝明天皇より将軍後見職を命ぜられている。
さて、この時期に、両者はこんなにも近所にそれぞれの屋敷を構えていたのである。松平容保の家は、自分の住んでいた家から2〜3ブロック先くらいの場所にあり、慶喜の敷地には、自分が通っていた小学校の土地が含まれているから、自分は小学生の頃、毎日両者の家を往復していたようなことになる。実際、容保は、こっそり自邸の裏門を出て、慶喜の屋敷まで足を運び、次期将軍と政論を戦わせていたのかも知れない。政治の機微な話は、人目の多い江戸城で堂々とする訳にもいかなかっただろうが、こんなところまで来れば、会っていることを人に知られずに済んだのではないだろうか。何しろここは江戸とは言っても、その東の境界線ぎりぎりなのだ。ここで、ふたりは同志として結束し、容保が京都の所司代を命ぜられた、という推理も成り立つ。
歴史は、意外に自分の知っている近所で動いていたものなのかも知れない。

3